定善と散善①

梯實圓著『親鸞聖人の教え・問答集』のp31~32より引用

 ところが、経には牢獄でのたうち回るほど苦しんでいた韋提希が、釈尊にお願いしたことは、「われに思惟を教へたまへ、われに正受を教へたまへ」と、定善と呼ばれる修行法を教えていただきたいと要請しました。定善とは、坐禅の一種でして、端坐して身心を安定させ、心を一点に集中して動かすことなく、阿弥陀仏とその浄土を正確に心に顕現させる修行法でした。それは、観察とも観念ともいわれるように、清らかに輝く浄土の荘厳の有様と、広大無辺な功徳を実現されている阿弥陀仏と、その脇士である観音・勢至の二菩薩の素晴らしい姿を目の当たり観念し確認していく十三種の観法でした。しかしそれは、出家して俗縁を離れ、愛憎の煩悩を離れて、長年にわたって心を一点に集中して真理を瞑想する修行を続けた人がようやくだどり着けるような困難な修行でした。わが子のために牢獄に監禁されて身も心も乱れはてて、狂乱しているような韋提希にできるはずのない行です。しかし釈尊は、極めて勝れた修行者ならば、この土にありながら浄土を確認し、阿弥陀仏を目の当たり拝見することもできることを知らせるために、あえて十三種の定善と呼ばれる観念の修行法を説かれたのでした。
 しかし釈尊は、韋提希は要請しませんでしたが、さらに広く往生を願う人の中には、自分が積み重ねた善根によって、浄土に往生したいと願う人のいることを考慮されて、そのような善人のために、散善の行を説かれました。散善とは、心を静める定善に対して、散り乱れた日常の心のままで、悪を慎んで、善を励むことをいいます。その善なる行為を九種類に分けて説かれているので九品の往生と呼び習わしています。まず大乗仏教で説かれている自利・利他の善を行福といい、上品上生・上品中生・上品下生に三種に分けて説かれています。次に戒律を中心にした小乗の善を戒福と名づけ、中品上生と中品中生に説かれています。次に世間の善を世福と呼び中品下生として説かれています。
 さらに『観経』では、定善も散善もできなくて、一生涯悪業ばかりを造っていた悪人も、臨終に善知識に遇い、念仏して往生する姿が説かれています。下品上生は、比較的軽い悪人の往生を表わし、下品中生は中程度の悪人の往生を表わし、下品下生は極重の悪人の念仏往生が説かれています。



定善と散善②

梯實圓著『親鸞聖人の教え・問答集』のp163~166より引用

Q.善・悪という言葉の定義はわかりましたが、仏教では具体的に、どのような行為を善とし、悪とみなして人びとを教化してきたのですか。

A.善と悪の行為を具体的に説かれているのは『観経』です。そこでは極楽という阿弥陀仏の浄土へ往生することのできる徳をもっている行為を善といい、地獄や餓鬼や畜生といった悪道に堕ちる行為を悪とされています。

Q.まず善なる行為とは、どんな行いですか。

A.法然上人は『選択集』念仏付属章に、『観経』に説かれている善行、すなわち往生の因となる行を分類すると、定善と散善と念仏という三種の行になると言われています。その定善と散善は自力の行であり、念仏は他力の行です。

Q.定善とは、どういう善行ですか。

A.浄土の有様や、阿弥陀仏のお姿を心眼で見ていく行です。

Q.心眼とは何ですか。

A.肉眼に対して心の眼のことです。修練によって心を研ぎ澄ましていきますと、肉眼では見えない世界が、心の眼ではっきりと見えるようになります。そのための修行が定善です。善導大師は、それを「慮りをやめて、もって心を凝らす」と言われています。
 心は五官を通して外部の刺激を受けて絶えずゆれ動いていますし、また心はいろんなことを思い続けています。そこで心を一点に集中することによって、外からの刺激にも、内からの想念にも乱されることがなくなり、水が氷になったように静かに、安定して動かなくなった状態を「定」といいます。インドの言葉ではサマーディ(三昧)といいます。
 「定」の状態は妄念・煩悩が静まり、浄化されていますから「善」の性質をもっています。だから「定善」というのです。池の水が波立っていますと周囲の景色は歪んでしか映りません。しかし、風が止んで、水面が鏡のように静まると、周囲の景色があるがままに映り込むように、心の乱れがなくなると、妄念・煩悩によって歪められていた迷いの世界が消えて、経典に説かれている通りに真実の世界が心に映ってきます。それを智慧をもって確認することを「観」とも「観察」「観念」ともいいます。そこで定善を定観ともいうのです。

Q.『観経』には、どのような定善観が明かされているのですか。

A.『観経』には、韋提希夫人の要請に応じて、十三種類の観念の法が説かれています。これを定善十三観と呼んでおります。そのなか第一観から第七観までは、浄土の有様を観ずるので依報観といい、第八観から第十三観までは、浄土の主である阿弥陀如来とその左右の脇士である観世音菩薩と大勢至菩薩を観ずるので正報観といいます。

Q.依報観とか正報観とは、どういうことですか。

A.依報とは、衆生(主体)の生活の拠り所となる生活環境のことで、一般には山河大地など国土を指します。それに対して正報とは、業報の正しき主体である衆生そのものを指します。
 今は法蔵菩薩の願行を因として報い現われた仏・菩薩を正報といい、その仏・菩薩が受用されている境界を依報というのです。

Q.私どもの心は、深い眠り(極睡眠)に入っているとか、意識もなくなるほどの気絶状態(極悶絶)に陥っているとき以外は、一瞬の絶え間もなく動揺し続けておりますから、定善を完成することは果たしてできるのでしょうか。

A.確かに困難な修行で、容易に完成はできません。しかし極めて優れた能力を持ち、超人的な修行に耐えられる人は観念を成就し、生きながらにして浄土にいたって如来の説法を聞くことのできた方もいらっしゃいます。中国の善導大師や懐感禅師、それに法照禅師などはその極めて希な方です。
 しかし善導大師は「定善義」に、「この観念を実現しようと思ったら、完全に世俗と縁を切り、道場にこもって、あらゆる感覚器官を閉じて、何も見ず、聞かず、思わず、死人のようになってひたすら禅定を修するならば、必ず完成する。もしそうしないならば、たとひ千年の寿を尽くせども、法眼いまだかつて開けず」と誡められているように難行に違いありません。



定善と散善③

梯實圓著『親鸞聖人の教え・問答集』のp167~171より引用

Q.『観経』に説かれている散善とは、どのような善行ですか。

A.散り乱れた日常の心のままで、悪行を慎み、善行を修めることです。善導大師は「散はすなわち、悪を廃して、もって善を修す」と言われています。その散善を『観経』の「散善顕行縁」には、「三福行」として説かれています。

Q.三福行とは、どのような行ですか。

A.世福・戒福・行福という三種類の行のことです。三福の「福」とは「しあわせ」のことです。人びとに幸せな果報をもたらす三種類の善行ですから三福行というのです。

Q.世福とは、どういう意味ですか。

A.世間の善ですから世福(世善)といいます。それは世俗を超えるための行ではなく、皆がこの世を幸せに生きるために守らなければならない世間のきまりや、日常生活の質を向上させるためになさねばならない行いのことです。

(中略)

Q.戒福とは、どういう意味ですか。

A.小乗仏教で勧められている善を戒福(戒善)といいます。小乗仏教では、とくに自分自身を清らかにたもち、生死を解脱することに全力を尽くす仏教ですから、何よりも戒律を守ることに重点が置かれています。すなわち世俗を超えて仏道に生きようと志す者は、まず仏陀が誡められた戒律を厳守し、欲望を制御して生活を浄化していかねばなりません。
 まず仏・法・僧の三宝に帰依することを誓う三帰戒をはじめとして、在家の信者ならば五戒をたもって生活し、毎月の六斎日(つつしみの日)に八斎戒をたもち、せめて一昼夜だけでも出家のような清浄な生き方をしなさいと勧められています。
 さらに出家をすれば、まず十戒をうけて修練し、さらに本格的に具足戒をうけて、比丘(男)あるいは比丘尼(女)として清らかな無欲の生活に徹しなければなりません。それによって、仏弟子としてふさわしい身心ともに浄化された生涯を送ることができるからです。

(中略)

Q.行福とは、どのような修行ですか。

A.行福は、大乗仏教で勧められている自利・利他一切の善行を総称したものです。だから行福(行善)というのです。
 大乗に生きようとする人は、まず自他ともに生死を超えて、安らかなさとりの境地を実現していこうと自利と利他の完成を誓う菩提心(さとりの完成を求める誓願)を発さねばなりません。
 そしてあわれみの心をもって人びとに広く施(ほどこし)を行い(布施)・戒律をたもって生活を浄化し(持戒)・どんな苦難にもたえ(忍辱)・たゆみなく努力を続け(精進)・精神を集中して(禅定)・一切は空であると覚る智慧(智慧)を極めて、とらわれを離れるならば、自他ともに、生死を超えることができると、さとりの因果を信じて努め励んでいきます。それを「深く因果を信じる」といいます。
 そして、大乗経典を常に読誦して智慧をみがき、あらゆる人びとに仏教を説いて仏道を歩むようにと勧める伝道(勧進)に努めねばならないといわれています。

Q.この三福行は、もともと往生の行として説かれたものですか。

A.本来は穢土でさとりを完成するための修行だったのです。ですから『観経』には、あらゆる仏陀たちが、まだ菩薩であったときに修行された成仏のための清らかな行いであるといわれています。つまり本来は聖道門の行だったのです。それを『観経』はこの後、九品段に、この三福行を往生の業として広く説かれています。
 すなわち上品上生・上品中生・上品下生には行福が、中品上生と中品中生には戒福が、中品下生には世福が説かれ、三福行によって善人が往生する有様が述べられています。
 そして下品上生・下品中生・下品下生の三生には、定善はもちろん散善すらできなかった無善造悪の悪人が、ようやく臨終にいたって念仏の教えに遇い往生するという、悪人往生の相が明かされるわけです。



私に御本願を伝えて下さった


2014/5/7

梯實圓和上が往生の素懐を遂げられました。喜ぶべきことなのでしょうが、やはり寂しい思いで一杯です。

私に御本願を伝えて下さった方、感謝の言葉もございません。


私は私の人生、残された時間で何をすべきなのか、改めて真剣に考えるきっかけをくださいました。

この泪を忘れはしません。本当に有り難うございました。

貴方に出遇うことができ、私は世界一の幸せ者です。


南無阿弥陀仏


当ブログについて

 当ブログは、高森顕徹氏が会長を務める「宗教法人・浄土真宗親鸞会」の邪義を破っていくものです。目に余る親鸞会の醜状を歎き、ここに真宗の正義を綴りました。

※メイン記事の最終更新は2013年の2月であり、親鸞会の教義や組織に関する情報はそれ以前のものに基づいております。

管理人:黒猫

 関東在住の念仏者です。有り難くも阿弥陀様よりご信心を恵まれ、お念仏申す人生を送っております。

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