此一流は始終ひしと他力なり

【問い】

 信心獲得は「宿善まかせ」と蓮如上人は仰っているのだから、宿善が厚くなるよう求めねばならんのは当然だろう。


【答え】

 蓮如上人関連の著作にみえる「宿善」という言葉は、『御文章』に三十箇所、『正信偈大意』に二箇所、『御一代記聞書』に十箇所ありますが、どこにもそのような語法では使われていません。そのような語法とは、「宿善は待つにあらず、求むるものなり」という使い方です。言葉は相対的なものですから、著者の定義や語法をきちんと踏まえた上で読まなければなりません。高森会長は「宿善」という言葉だけを切り取って勝手に定義し、教団の都合によって悪用しているだけであって、それと真宗で言われる「宿善」は別物です。

 結論から申しますと、「宿善」とは宿世の善き因縁のことで、如来の調育のはたらきを指します。それは「たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ」(総序)という御言葉や、「宿善めでたしといふはわろし。御一流には宿善ありがたしと申すがよく候ふ」(御一代記聞書)などのお示しからも端的にわかるでしょう。『拾遺御一代記聞書』にも、

 此一流は始終ひしと他力なり、一心に弥陀をたのむも我賢てたのむにあらず、過去の宿善によりてたのむゆへに始終みな他力なり。(真聖全五、拾遺部下、五五七頁)


とあるように、宿善とは如来のはからいであって、自ら励み求めるものではないのです。「始終みな他力なり」です。『御文章』一帖目第四通にも、

 おほよそ当家には、一念発起平生業成と談じて、平生に弥陀如来の本願のわれらをたすけたまふことわりをききひらくことは、宿善の開発によるがゆゑなりとこころえてのちは、わがちからにてはなかりけり、仏智他力のさづけによりて、本願の由来を存知するものなりとこころうるが、すなはち平生業成の義なり。


とお書きになられています。「わがちからにてはなかりけり、仏智他力のさづけによりて」です。

 平成25年1月15日号の顕正新聞には「宿善」の「善」=善根(善い行い)と書かれていますが、「宿善」は「宿因」や「宿縁」などと言い換えられますように、「宿世の善き因縁」という意味です。そして、その本体は仏の光明によるお育てなのです。『口伝鈔』に、

 往生の信心の定まることはわれらが智分にあらず、光明の縁にもよほし育てられて名号信知の報土の因をうと、しるべしとなり。これを他力といふなり。


と言われているのを『御文章』二帖目第九通などで、

 まことに宿善の開発にもよほされて、仏智より他力の信心をあたへたまふ。


といった表現で換言されているのです。宿善=光明です。

 つまり、宿善とはそれを積み重ねることによって獲信しようなどという次元の教説ではなく、信心を獲得した上で遠い過去世にまでわたる因縁を慶ぶ言葉です。それは光明によるお導きですから、宿世の善き因縁、すなわち「宿善」と呼ばれます。「遠く宿縁を慶べ」とか、「宿善ありがたし」などと言われているのはそのためです。宿善は、これから獲信しようという場で考えるのではなく、すでに信心を獲得している場で受け取っていくべきものなのです。「宿善は待つにあらず、求むるものなり」などという教説は、ただの一箇所も聖教上に存在しません。

 このように批判すると、親鸞会はいつもお決まりの反論をしてきます。それが以下の詭弁です。

 『宿善と聴聞と善のすすめ』10章 疑難と答え6

(疑難)

 「宿善とは、宿世(過去世)の善根という意味であり、振り返って喜ぶ過去の善だから〝宿善を求める〟などと未来に向かって言うべきことではない。今からやる善とは無関係だ」

(答え)

 要するに「過去をあらわす言葉を未来に使うのが間違い。過去の善根と未来の善根とは無関係」というのである。

 果たして、そう言えるだろうか。
 「想い出をつくろう」というのは間違いだろうか。「想い出」は過去をあらわす言葉であり、「つくろう」は未来のことだからである。
 「悔いを残さぬように」というのも間違いだろうか。「悔い」は過去をあらわす言葉であり、「残さぬように」は未来のことであるからだ。

 「宿善」は過去をあらわす言葉であり、「求める」は未来のことである。
 「宿善を求める」だけが、なぜ間違いと言えるのだろうか。悪いはずがなかろう。


 間違いですし、充分悪いです。冒頭で申しました通り、言葉は相対的なものであって、それぞれに定義や用法があります。「宿善」という言葉と「想い出」や「悔い」という言葉を同じ平面上で語らないで下さい。高森会長の主張には聖教上の根拠が全くありません。

 上記の文章は次のように続きます。

 また、こんな疑難もある。
 「世間のことと違って、弥陀の救いに『宿善を求める』といっては、他力の救いに自力が間に合うことになる。そんな言葉を使うのは間違いだ」
 分かりやすく言えば、こうだ。
 「宿善を求めるといえば、他力の救いに自力が間に合うことになるから間違いだ。過去の善と今からの善は無関係である」
という疑難である。

 「求めるといえば、他力の救いに自力が間に合うことになるから間違いだ」とすれば、ぼーっとしていればよいのかということになる。
 完全に他力と無力の聞き誤りである。


 他力を無力を聞き誤っているのは、高森会長、あなた自身です。「宿善を求める」というような心はすてなければいけませんが、それはぼーっとすることではありません。自力をすてて他力に帰せよと言っているのです。『御一代記聞書』には以下のように教えられています。

 よきことをしたるがわろきことあり、わろきことをしたるがよきことあり。よきことをしても、われは法義につきてよきことをしたると思ひ、われといふことあればわろきなり。あしきことをしても、心中をひるがへし本願に帰すれば、わろきことをしたるがよき道理になるよし仰せられ候ふ。しかれば、蓮如上人は、まゐらせ心がわろきと仰せらるると云々。


 一見善いことと見える行いでも、そこに「自分こそが」という我執があるならば、それはかえって悪となります。一方、たとえ悪いことをしてしまっても、回心して本願を信じれば、悪いことをしたのが善いことになる場合もあります。親鸞聖人も「疑謗を縁として」(化土巻)と仰っているように、たとえ謗法の教団である親鸞会に騙されてしまったとしても、その経験が縁となって本願に遇えたならば、それも「宿善」であって「宿悪」とは言われないのです。総じて言えば、自らの善根を阿弥陀仏にふり向け、役立たせようとする心こそが悪なのであるというのが、上記の御文の結論です。

 獲信を目指して「宿善を求める」などという考えは、自らの善根を役立てて信心を獲得しようとすることであり、蓮如上人が「わろき」と戒められた「まゐらせ心」です。その心をすてよというのは、ぼーっとしていればよいと言っているのではありません。本願に帰せよと言っているのです。

 何度でも言いますが、「宿善は待つにあらず、求むるものなり」というのは高森会長の創作教義です。前代未聞、全くの珍説です。『御文章』三帖目第十二通には、

 それ、当流の他力信心のひととほりをすすめんとおもはんには、まづ宿善・無宿善の機を沙汰すべし。さればいかに昔より当門徒にその名をかけたるひとなりとも、無宿善の機は信心をとりがたし。まことに宿善開発の機はおのづから信を決定すべし。されば無宿善の機のまへにおいては、正雑二行の沙汰をするときは、かへりて誹謗のもとゐとなるべきなり。この宿善・無宿善の道理を分別せずして、手びろに世間のひとをもはばからず勧化をいたすこと、もつてのほかの当流の掟にあひそむけり。されば『大経』にのたまはく、「若人無善本不得聞此経」ともいひ、「若聞此経 信楽受持 難中之難 無過斯難」ともいへり。また善導は「過去已曾 修習此法 今得重聞 則生歓喜」とも釈せり。いづれの経釈によるとも、すでに宿善にかぎれりとみえたり。しかれば宿善の機をまもりて、当流の法をばあたふべしときこえたり。


と教示されています。「無宿善の機のまへにおいては、正雑二行の沙汰をするときは、かへりて誹謗のもとゐ」となりますから、「まづ宿善・無宿善の機を沙汰すべし」なのです。「宿善の薄い者は宿善を求めよ」などとは言われません。「宿善の機をまもりて、当流の法をばあたふべし」です。

 『御一代記聞書』に、

 御文のこと、聖教は読みちがへもあり、こころえもゆかぬところもあり。御文は読みちがへもあるまじきと仰せられ候ふ。御慈悲のきはまりなり。これをききながらこころえのゆかぬは無宿善の機なり。


と書かれている『御文章』ですが、そこには「雑行をすてよ」と絶対に間違いようのない御教えが説かれています。それをあくまで「雑行をせよ」ということだと真逆の解釈をするならば、その人は無宿善だと言わざるを得ません。しかし、当ブログなどを読んで親鸞会の間違いを素直に受け止められるならば、その方にはきっと宿善があります。正しい浄土真宗を聴聞し、真実信心を決定して下さい。


 ときに、「あさましや バーゲン信心 体験談」と詠う親鸞会が、平成25年1月15日号の顕正新聞に故人の体験談を載せていました。退会者続出の波が止まらないので、わかりやすい餌をぶら下げたのでしょう。まさに「教えなし 体験談が 自慢種」です。

 記事の最後にはこう書かれてありました。

 「一向専念無量寿仏、これ一つですよ。弥陀の本願を疑ってはなりませんよ」

 ここだけ読めば仰る通りです。しかし、一向専念無量寿仏させずに、弥陀の本願を疑うよう会員に仕向けるのが高森顕徹という男です。このことは以前のエントリーで書きました。

参照:「念仏成仏これ真宗」


 会員からは「蓮如上人以来の大善知識」と呼ばれている高森会長ですが、「善鸞以来の大悪知識」であるというのが実情です。誤って自力の念仏を説く僧侶は多くいても、獲信のためには諸善を積めなどという飛び抜けた邪義を唱える者はいなかったからです。

 これ以上阿弥陀様を悲しませないで頂きたい、そう願うばかりです。


コメントの一覧

No title

全ては他力であるという教えを、自力が全てだと思っているのが親鸞会である。その愚かさ、無宿善の機である親鸞会会員には到底わからぬであろう。まさに宿善まかせである。

No title

 大経には「もし衆生ありて疑惑の心をもて諸々の功徳を修して彼の国に生ぜんと願ぜん。仏智、不思議智、不可称智、大乗廣智、無等無倫最上勝智を了せずして、この諸智において疑惑して信ぜず。しかもなを罪福を信じて善本を修習してその国に生ぜんと願ぜん」と説かれ、このような者は「大利を失す。」と教誡されている。祖師はこれを自力仮門とし(化土巻)、この自力仮門を横超他力の大行と対弁し(行巻の念仏諸善比挍対論)、「もっぱらこの行につかえ。ただこの信をあがめよ。」(総序)「横超というは本願を憶念して自力をの心をはなる。専修というはただ仏名を称念して自力の心をはなるる。これを横超他力となづくるなり。」(化土巻)と大信を勧められている。
 「宿善を厚くして救われようとする心」がこの大経の説く自力心そのものであり、祖師のいわれる自力仮門である。真宗である本願の横超他力を勧めずして自力仮門の行を何十年にもわたって勧める高森という人物はいったい何者か。これを善知識として崇める親鸞会という団体はいったい何だ。すべからく冷静にその正体を見抜くべし。


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当ブログについて

 当ブログは、高森顕徹氏が会長を務める「宗教法人・浄土真宗親鸞会」の邪義を破っていくものです。目に余る親鸞会の醜状を歎き、ここに真宗の正義を綴りました。

※メイン記事の最終更新は2013年の2月であり、親鸞会の教義や組織に関する情報はそれ以前のものに基づいております。

管理人:黒猫

 関東在住の念仏者です。有り難くも阿弥陀様よりご信心を恵まれ、お念仏申す人生を送っております。

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