念仏成仏これ真宗

【問い】

 他力と無力を混同しているのは信仰の幼稚園児だ。まずは自力の善を積まねば信仰は進まないだろう。


【答え】

 『一枚起請文』に法然上人は、

 ただ往生極楽のためには南無阿弥陀仏と申して、疑なく往生するぞと思ひとりて申すほかには別の子細候はず。


と教えられ、『歎異抄』で親鸞聖人は、

 親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべしと、よきひとの仰せをかぶりて信ずるほかに別の子細なきなり。


と仰っています。念仏して仏に成るのが浄土真宗であって、その他には何もないのです。

 その理由を存覚上人より伺ってみます。『浄土真要鈔』からの引用です。

 それ一向専修の念仏は、決定往生の肝心なり。これすなはち『大経』のなかに弥陀如来の四十八願を説くなかに、第十八の願に念仏の信心をすすめて諸行を説かず、「乃至十念の行者かならず往生を得べし」と説けるゆゑなり。しかのみならず、おなじき『経』の三輩往生の文に、みな通じて「一向専念無量寿仏」と説きて、「一向にもつぱら無量寿仏を念ぜよ」といへり。「一向」といふはひとつにむかふといふ、ただ念仏の一行にむかへとなり。「専念」といふはもつぱら念ぜよといふ、ひとへに弥陀一仏を念じたてまつるほかに二つをならぶることなかれとなり。

 
 「一向専修の念仏は、決定往生の肝心」であるのは、念仏の一行が釈迦・弥陀の御心だからだと仰っているわけです。

 まず、「第十八の願に念仏の信心をすすめて諸行を説かず」と存覚上人は教えておられますが、念仏の信心をすすめず諸行を説くのが高森会長です。悪知識に順っている会員さんが獲信できないのは当然の帰結です。

 次に存覚上人は、「『乃至十念の行者かならず往生を得べし』と説けるゆゑなり」と書かれています。これは「乃至十念 若不生者 不取正覚」の文意です。『唯信鈔文意』にも、

 「乃至十念 若不生者 不取正覚」といふは、選択本願の文なり。この文のこころは、「乃至十念の御なをとなへんもの、もしわがくにに生れずは仏に成らじ」とちかひたまへる本願なり。


と示されています。阿弥陀仏の本願とは、「本願を信じ、浄土に生れるとおもって、念仏称えなさい。もし浄土に生れなければ、仏に成らない」というお約束です。「若不生者」=「信楽に生まれさせる」などという解釈をしている限り信心決定はできません。

参照:「若不生者不取正覚」といふは

 続いて釈尊の御心が明らかにされています。もちろん釈尊の御心とは「一向専念無量寿仏」ですが、その意味まで詳しく教えて下さっているのです。すなわち、「『一向』といふはひとつにむかふといふ、ただ念仏の一行にむかへとなり。『専念』といふはもつぱら念ぜよといふ、ひとへに弥陀一仏を念じたてまつるほかに二つをならぶることなかれとなり」というご解説です。

 「一向」とは念仏一行に向かうことですから、念仏を軽視して雑行に励む親鸞会は一向ではありません。弥陀一仏を念じるだけでは「一向専念無量寿仏」とは言えないのです。『選択本願念仏集』の解説も同じです。

 もし念仏のほかにまた余行を加へば、すなはち一向にあらず。(中略)すでに一向といふ、余を兼ねざること明らけし。すでに先に余行を説くといへども、後に「一向専念」といふ。あきらかに知りぬ、諸行を廃してただ念仏を用ゐるがゆゑに一向といふ。


 「一向」とは念仏以外に余行を兼ねないことであり、諸行を廃して念仏を立てるということです。善知識方が「諸行をすてよ」と仰っているのに対し高森会長の教義は「諸行を実行せよ」ですが、「左に行け」という教えを「右に行け」と真逆に解釈しているのですから、親鸞会で救われる人は誰もいないのです。

 釈迦・弥陀の御心である一向専修の念仏、これが決定往生の肝心です。会員さんにわかりやすく言えば、「念仏の信心一つで救われる」ということです。信因称報説を聞き損なって念仏を軽んじてはなりません。信心と念仏は相即不離の関係にあるからです。親鸞聖人は『御消息』で、

 信の一念・行の一念ふたつなれども、信をはなれたる行もなし、行の一念をはなれたる信の一念もなし。そのゆゑは、行と申すは、本願の名号をひとこゑとなへて往生すと申すことをききて、ひとこゑをもとなへ、もしは十念をもせんは行なり。この御ちかひをききて、疑ふこころのすこしもなきを信の一念と申せば、信と行とふたつときけども、行をひとこゑするとききて疑はねば、行をはなれたる信はなしとききて候ふ。また、信はなれたる行なしとおぼしめすべし。これみな弥陀の御ちかひと申すことをこころうべし。行と信とは御ちかひを申すなり。


とお書きになっています。

 信心の内容は「名号を称える者を救う」という本願であり、行とは信じた通りに本願の念仏を称えることですから、行を離れれた信はなく、信を離れた行もないと言われるのです。妙好人の浅原才市さんは、「風邪をひけば咳が出る 才市が御法義の風邪をひいた 念仏の咳が出る出る」と表現されています。

 そして、この行信は他力より回向されるものですから、信心は自分で起こすものではありませんし、念仏は我々の善根でもありません。まず信心の他力回向について、『一念多念証文』を拝読致します。

 「聞其名号」といふは、本願の名号をきくとのたまへるなり。きくといふは、本願をききて疑ふこころなきを「聞」といふなり。またきくといふは、信心をあらはす御のりなり。(中略)「至心回向」といふは、「至心」は真実といふことばなり、真実は阿弥陀如来の御こころなり。「回向」は、本願の名号をもつて十方の衆生にあたへたまふ御のりなり。


 世間の「信心」と真宗の「信心」はその構造を異にしていますから、相違点をきちんと理解することが大切です。まず世間の「信心」とは、教えを聞いてそれを信じるという形で成立しています。聞くことを要因として信心が成立しているわけです。一方で真宗の「信心」は、聞くこと・聞いていることがそのまま信です。ですから「聞即信」と言われます。本願を聞くことのほかに信心があるのではなく、聞かれる名号がそのまま私の信心となってはたらいて下さるのですから、この信心を他力回向の信心と言うのです。ここでの「聞く」とは、「疑ふこころなき」という聞き方であり、そのまま素直に受け入れるということです。

 次に、念仏の他力回向に関して「行文類」から学びます。

 あきらかに知んぬ、これ凡聖自力の行にあらず。ゆゑに不回向の行と名づくるなり。大小の聖人・重軽の悪人、みな同じく斉しく選択の大宝海に帰して念仏成仏すべし。


 他力回向の念仏というのは、言い方を変えれば不回向の行ということです。念仏以外の余行は、浄土往生の因となるよう願いを込めて振り向けねば往生行とはなりませんが、本願の念仏は阿弥陀仏が往生の行として選定されたものですから、行者が回向する必要がないという意味です。念仏は如来より回向される行なのです。『御一代記聞書』に、

 「真実信心の称名は 弥陀回向の法なれば 不回向となづけてぞ 自力の称念きらはるる」といふは、弥陀のかたより、たのむこころも、たふとやありがたやと念仏申すこころも、みなあたへたまふゆゑに、とやせんかくやせんとはからうて念仏申すは、自力なればきらふなりと仰せ候ふなり。


とありますように、本願の名号を自分の功徳だとおもって称える念仏は、自力ですので嫌われます。名号のいわれを聞き誤っているすがたです。『安心決定鈔』で、

 下品下生の失念の称念に願行具足することは、さらに機の願行にあらずとしるべし。法蔵菩薩の五劫兆載の願行の、凡夫の願行を成ずるゆゑなり。阿弥陀仏の凡夫の願行を成ぜしいはれを領解するを、三心ともいひ、三信とも説き、信心ともいふなり。阿弥陀仏は凡夫の願行を名に成ぜしゆゑを口業にあらはすを、南無阿弥陀仏といふ。


と教えられている通り、願行具足の南無阿弥陀仏は阿弥陀如来が完成されたものです。それを自分の善根だと勘違いして称えていたのでは、弥陀経往生(第二十願による化土往生)にとどまってしまいます。

 長々と説明してきましたが、この他力回向による行信、すなわち南無阿弥陀仏が決定往生の肝心です。「念仏する者を必ず往生させる」という仰せをはからいなく聞き受け、仰せのまま念仏を称えるほかに往生極楽の道はありません。

 親鸞会の会員さんが信心決定できないのは、会員さんに非があるのではなく、高森会長が正しい仏願の生起本末を説いていないことが真の原因です。平成24年の学生大会で高森会長は、「仏願の本=18願、仏願の末=19・20願」という新たな邪義を唱えました。親鸞聖人がそのように教えたという根拠は皆無なのですが、親鸞聖人よりも高森会長を先行させてしまうところにマインドコントロールの恐ろしさがあります。

 正しい仏願の生起本末を親鸞聖人は、

 一切の群生海、無始よりこのかた乃至今日今時に至るまで、穢悪汚染にして清浄の心なし、虚仮諂偽にして真実の心なし。ここをもつて如来、一切苦悩の衆生海を悲憫して、不可思議兆載永劫において、菩薩の行を行じたまひしとき、三業の所修、一念一刹那も清浄ならざることなし、真心ならざることなし。如来、清浄の真心をもつて、円融無碍不可思議不可称不可説の至徳を成就したまへり。如来の至心をもつて、諸有の一切煩悩悪業邪智の群生海に回施したまへり。


『教行信証』で教示され、『御文章』に蓮如上人は、

 それ、五劫思惟の本願といふも、兆載永劫の修行といふも、ただわれら一切衆生をあながちにたすけたまはんがための方便に、阿弥陀如来、御身労ありて、南無阿弥陀仏といふ本願をたてましまして、「まよひの衆生の一念に阿弥陀仏をたのみまゐらせて、もろもろの雑行をすてて、一向一心に弥陀をたのまん衆生をたすけずんば、われ正覚取らじ」と誓ひたまひて、南無阿弥陀仏と成りまします。これすなはちわれらがやすく極楽に往生すべきいはれなりとしるべし。されば南無阿弥陀仏の六字のこころは、一切衆生の報土に往生すべきすがたなり。


と説かれています。仏願の本末とは仏願の因果ということです。


【仏願の本 = 仏願の因本】
 法蔵菩薩(阿弥陀仏の因の位のとき)の発願修行。自分の力では生死を出離することのできない我々を救うため、菩薩は本願を起こされ、永劫の修行をせられた。

【仏願の末 = 仏願の果末】
 因位の願行が成就して果成の阿弥陀仏となられた。願いの通りに十方衆生を育て導き、現に人々を救いつつある。



 亀毛兎角とでも言いましょうか、「仏願の本=18願、仏願の末=19・20願」などという教説が浄土真宗に存在するわけがありません。

 南無阿弥陀仏のいわれを正しく聞いて、念仏一行に向かって下さい。「親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべしと、よきひとの仰せをかぶりて信ずるほかに別の子細なきなり(歎異抄)です。

 親鸞会が教え勧めるのは「獲信ためにはまず善をせよ」ですが、実は自分の力を役立たせようとするその心ほど罪深いものはないのです。信心決定は「人生の目的」ではありませんし、達成するものでもありません。Pull(引く)と書かれてあるドアをPush(押す)と間違えば、押しても押してもドアは開かないのです。向こうからは開かれているドアを、逆に自らの側から押しているのが親鸞会です。

 本願力回向の宗教である浄土真宗のイロハすらわかっておらず、根本から他力の教えをねじ曲げている悪知識、それが高森顕徹の正体であることに気付いて下さい。「善知識の能といふは、一心一向に弥陀に帰命したてまつるべしと、ひとをすすむべきばかりなり(御文章)です。


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生きなば念仏申すべし

しばらくです。今年もよろしくお願いいたします。聞いたこと、覚えたことも、みな忘れ、残るひとつは、南無阿弥陀仏。難しいことは何もわかりませんが、阿弥陀様のお慈悲の中での日暮に、身も心も安んじて、有難い事です。法然上人、親鸞聖人から脈脈と受け継がれている、真宗の御法義が、悪知識により捻じ曲げられ、本当に許し難いです。会を離れてみて初めて教えのおかしさに気ずかされ、退会した方々のブログで、いろいろ知らされました。阿弥陀様のおはからい、お育てと、思わずにはおれません。きっと私のように退会した人達のブログで、気ずかされ、知らされて、疑いなく仰せに信順させていただける人も、現れると思います。阿弥陀様がいつも一緒ですものね。南無阿弥陀仏


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当ブログについて

 当ブログは、高森顕徹氏が会長を務める「宗教法人・浄土真宗親鸞会」の邪義を破っていくものです。目に余る親鸞会の醜状を歎き、ここに真宗の正義を綴りました。

※メイン記事の最終更新は2013年の2月であり、親鸞会の教義や組織に関する情報はそれ以前のものに基づいております。

管理人:黒猫

 関東在住の念仏者です。有り難くも阿弥陀様よりご信心を恵まれ、お念仏申す人生を送っております。

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