二河白道の譬喩(2)

【問い】

 譬喩の中には「『人道の上を行きてただちに西に向かふ』といふは、すなはちもろもろの行業を回してただちに西方に向かふに喩ふ」とあるではないか。「もろもろの行業を回して」というのは、弥陀に向かって宿善を積んでいくことだろう。


【答え】

 違います。親鸞会が御文の意味を誤解しているだけです。

 ここで「もろもろの行業を回して」と言われている「回して」は、「回向して」ということではありません。「回して」とは、回転・回捨の意味であり、「ひるがえし捨てて」ということです。たとえば『唯信鈔文意』に、

 『観経』の三心は定散二機の心なり、定散二善を回して、『大経』の三信をえんとねがふ方便の深心と至誠心としるべし。


とあるのと同様、「ふり捨てて」というのが正しい解釈です。


 旅人は弥陀の呼び声を聞いて「道の上を行きてただちに西に向かふ」のですが、弥陀の呼び声とは「なんぢ一心に正念にしてただちに来れ、われよくなんぢを護らん。すべて水火の難に堕せんことを畏れざれ」でした。

 「ただち(直)に来れ」「直」について『愚禿鈔』では、

 「直」の言は、回に対し迂に対するなり。また「直」の言は、方便仮門を捨てて如来大願の他力に帰するなり、諸仏出世の直説を顕さしめんと欲してなり。


と解説されています。まず「『直』の言は、回に対し迂に対するなり」と仰っていますが、「回」(まわり道)及び「迂」(遠まわり)とは『教行信証』で、

 横超とは、横は竪超・竪出に対す、超は迂に対し回に対するの言なり。竪超とは大乗真実の教なり。竪出とは大乗権方便の教、二乗・三乗迂回の教なり。横超とはすなはち願成就一実円満の真教、真宗これなり。また横出あり、すなはち三輩・九品、定散の教、化土・懈慢、迂回の善なり。


と書かれている通り、漸教の二出を指します。

※二双四重の教判を知らない方がありましたらこちらを参照して下さい。

 つまり、白道(願力の道、清浄の願往生心)とは横超の「真教、真宗」であり、定散のような「迂回の善」ではないということです。ですから『教行信証』には、

 つつしんで往相の回向を案ずるに、大信あり。大信心はすなはちこれ長生不死の神方、欣浄厭穢の妙術、(中略)極速円融の白道、真如一実の信海なり。


と説かれており、大信心の別名として「極速円融の白道」と言われています。

 また、先ほど挙げた『愚禿鈔』の御文には、「『直』の言は、方便仮門を捨てて如来大願の他力に帰するなり」とも書かれていました。「ただち(直)に来れ」の呼び声に信順して、旅人は「ただちに(直)西に向かふ」のですが、それは「方便仮門を捨てて如来大願の他力に帰する」ことであるというわけです。

 従って、「『人道の上を行きてただちに西に向かふ』といふは、すなはちもろもろの行業を回してただちに西方に向かふに喩ふ」の翻訳は、「『人、道の上をまっすぐ西へ向かう』というのは、自力の行を全てふり捨てて、ただちに浄土へ向かうことを譬えたのである」となるのです。

 白道を進んでいくということは、「煩悩と闘っていく」ことでもなければ、「弥陀に向かって宿善を積んでいく」ことでもありません。そのような自身の善悪にとらわれず、素直に他力全託して、お念仏の人生を歩んでいくことです。

 講師部員の中には、「高森先生は現代の人にもわかりやすいよう、あえて原文とは違った説明をして下さっているのだ」などと言う者もいますが、そんな次元の問題ではありません。高森会長の「二河白道の譬喩」は完全な捏造、改竄、創作教義です。

 会員さんが何十年経っても信心決定できない原因、それは「親鸞会の教えは邪義だから」という単純な理由なのです。釈迦弥陀二尊の正意に信順して、一日も早く信心決定して下さい。


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非の打ち所がない、ですね。私も如来の呼びかける「直ちに」とは、如来の「大悲心」であり、また、この大悲心に呼応する「信心」であると理解して味わっております。


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当ブログについて

 当ブログは、高森顕徹氏が会長を務める「宗教法人・浄土真宗親鸞会」の邪義を破っていくものです。目に余る親鸞会の醜状を歎き、ここに真宗の正義を綴りました。

※メイン記事の最終更新は2013年の2月であり、親鸞会の教義や組織に関する情報はそれ以前のものに基づいております。

管理人:黒猫

 関東在住の念仏者です。有り難くも阿弥陀様よりご信心を恵まれ、お念仏申す人生を送っております。

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