二河白道の譬喩(1)

【問い】
 
 善導大師が二河白道の譬喩で説かれているように、欲や怒りの心と闘いながら白道を進んでいくのが求道だ。そして、絶体絶命の三定死で「そのまま来たれ」の弥陀の呼び声を聞くのではないか。


【答え】
 
 違います。御聖教を無視して高森会長の解説を鵜呑みにするから、そうやって騙されてしまうのです。本気で後生の一大事を解決したい気持ちがあるなら、しっかり自分の目で確かめねばなりません。

 流し読みは禁物です。きちんと精読して下さい。『観無量寿経疏』にある二河白道の譬喩です。

 また一切の往生人等にまうさく、いまさらに行者のために一の譬喩を説きて、信心を守護して、もつて外邪異見の難を防がん。何者かこれなるや。たとへば、人ありて西に向かひて百千の里を行かんと欲するがごとし。忽然として中路に二の河あるを見る。一にはこれ火の河、南にあり。二にはこれ水の河、北にあり。二河おのおの闊さ百歩、おのおの深くして底なし。南北辺なし。まさしく水火の中間に一の白道あり。闊さ四五寸ばかりなるべし。この道東の岸より西の岸に至るに、また長さ百歩、その水の波浪交はり過ぎて道を湿し、その火炎また来りて道を焼く。水火あひ交はりて、つねにして休息することなし。この人すでに空曠のはるかなる処に至るに、さらに人物なし。多く群賊・悪獣ありて、この人の単独なるを見て、競ひ来りて殺さんと欲す。この人死を怖れてただちに走りて西に向かふに、忽然としてこの大河を見て、すなはちみづから念言す。「この河は南北に辺畔を見ず。中間に一の白道を見るも、きはめてこれ狭小なり。二の岸あひ去ること近しといへども、なにによりてか行くべき。今日さだめて死すること疑はず。まさしく到り回らんと欲すれば、群賊・悪獣漸々に来り逼む。まさしく南北に避り走らんと欲すれば、悪獣・毒虫競ひ来りてわれに向かふ。まさしく西に向かひて道を尋ねて去かんと欲すれば、またおそらくはこの水火の二河に堕せん」と。時に当りて惶怖することまたいふべからず。すなはちみづから思念す。「われいま回らばまた死せん。住まらばまた死せん。去かばまた死せん。一種として死を勉れずは、われむしろこの道を尋ねて前に向かひて去かん。すでにこの道あり。かならず度るべし」と。この念をなす時、東の岸にたちまち人の勧むる声を聞く。「なんぢ、ただ決定してこの道を尋ねて行け、かならず死の難なからん。もし住まらば、すなはち死せん」と。また西の岸の上に人ありて喚ばひていはく、「なんぢ一心正念にしてただちに来れ。われよくなんぢを護らん。すべて水火の難に堕することを畏れざれ」と。この人すでにここに遣はし、かしこに喚ばふを聞きて、すなはちみづからまさしく身心に当りて、決定して道を尋ねてただちに進みて、疑怯退心を生ぜず。あるいは行くこと一分二分するに、東の岸に群賊等喚ばひていはく、「なんぢ、回り来れ。この道嶮悪にして過ぐることを得ず。かならず死すること疑はず。われらすべて悪心をもつてあひ向かふことなし」と。 この人喚ばふ声を聞くといへどもまた回顧せず。一心にただちに進みて道を念じて行けば、須臾にすなはち西の岸に到りて、永くもろもろの難を離る。善友あひ見えて慶楽すること已むことなし。これはこれ喩へなり。
 次に喩へを合せば、「東の岸」といふは、すなはちこの娑婆の火宅に喩ふ。「西の岸」といふは、すなはち極楽の宝国に喩ふ。「群賊・悪獣詐り親しむ」といふは、すなはち衆生の六根・六識・六塵・五陰・四大に喩ふ。「無人空迥の沢」といふは、すなはちつねに悪友に随ひて真の善知識に値はざるに喩ふ。「水火二河」といふは、すなはち衆生の貪愛は水のごとく、瞋憎は火のごとくなるに喩ふ。「中間の白道四五寸」といふは、すなはち衆生の貪瞋煩悩のなかに、よく清浄の願往生心を生ずるに喩ふ。すなはち貪瞋強きによるがゆゑに、すなはち水火のごとしと喩ふ。善心微なるがゆゑに、白道のごとしと喩ふ。また「水波つねに道を湿す」といふは、すなはち愛心つねに起りて、よく善心を染汚するに喩ふ。また「火炎つねに道を焼く」といふは、すなはち瞋嫌の心よく功徳の法財を焼くに喩ふ。「人道の上を行きてただちに西に向かふ」といふは、すなはちもろもろの行業を回してただちに西方に向かふに喩ふ。「東の岸に人の声の勧め遣はすを聞きて、道を尋ねてただちに西に進む」といふは、すなはち釈迦すでに滅したまひて、後の人見たてまつらざれども、なほ教法ありて尋ぬべきに喩ふ。すなはちこれを声のごとしと喩ふ。「あるいは行くこと一分二分するに群賊等喚ばひ回す」といふは、すなはち別解・別行・悪見人等妄りに見解を説きてたがひにあひ惑乱し、およびみづから罪を造りて退失するに喩ふ。「西の岸の上に人ありて喚ばふ」といふは、すなはち弥陀の願意に喩ふ。「須臾に西の岸に到りて善友あひ見えて喜ぶ」といふは、すなはち衆生久しく生死に沈みて、曠劫より輪廻し、迷倒してみづから纏ひて、解脱するに由なし。仰ぎて釈迦発遣して指して西方に向かはしめたまふことを蒙り、また弥陀悲心をもつて招喚したまふによりて、いま二尊の意に信順して、水火の二河を顧みず、念々に遺るることなく、かの願力の道に乗じて、捨命以後かの国に生ずることを得て、仏とあひ見えて慶喜することなんぞ極まらんといふに喩ふ。


 高森会長の説明が如何に原文と相違しているかおわかりでしょうか。

 まず初めに、高森会長は「二河や白道の向こう岸は見えない」と説明していますが、善導大師は「二河おのおの闊さ百歩」「この道東の岸より西の岸に至るに、また長さ百歩」「二の岸あひ去ること近しといへども」などと仰っています。

 これは『愚禿鈔』に、

 「百歩」とは、人寿百歳に譬ふるなり。


とあるように、長くてもせいぜい百年ほどである人間の寿命を表しているのです。

 次に、高森会長は「白道を進んでいくと三定死になる」と説明していますが、原文には白道に乗じる前のこととして三定死が説かれています。

 「この人死を怖れてただちに走りて西に向かふに、忽然としてこの大河を見て、すなはちみづから念言す。「『この河は南北に辺畔を見ず。中間に一の白道を見るも、きはめてこれ狭小なり。二の岸あひ去ること近しといへども、なにによりてか行くべき。今日さだめて死すること疑はず。まさしく到り回らんと欲すれば、群賊・悪獣漸々に来り逼む。まさしく南北に避り走らんと欲すれば、悪獣・毒虫競ひ来りてわれに向かふ。まさしく西に向かひて道を尋ねて去かんと欲すれば、またおそらくはこの水火の二河に堕せん』と。時に当りて惶怖することまたいふべからず。すなはちみづから思念す。『われいま回らばまた死せん。住まらばまた死せん。去かばまた死せん。一種として死を勉れずは、われむしろこの道を尋ねて前に向かひて去かん。すでにこの道あり。かならず度るべし』と」

 すなわち三定死とは、①東に引き返そうとすれば群賊・悪獣が迫ってくる、②南や北へ逃げ去ろうとすれば悪獣・毒虫が向かって来る、③西に向かって道をたどって行こうとすれば、おそらく水火の二河に落ちてしまうだろう、ということです。

 しかし、「どうしても死を免れられないのなら、むしろこの道をたどって前に進もう。すでにこの道があるのだから、必ず渡れるに違いない」と旅人は思います。そしてその時に、釈迦・弥陀の声を聞くのです。

 「この念をなす時、東の岸にたちまち人の勧むる声を聞く。「きみただ決定してこの道を尋ねて行け、かならず死の難なからん。もし住まらば、すなはち死せん」と。また西の岸の上に人ありて喚ばひていはく、「なんぢ一心正念にしてただちに来れ。われよくなんぢを護らん。すべて水火の難に堕することを畏れざれ」と。この人すでにここに遣はし、かしこに喚ばふを聞きて、すなはちみづからまさしく身心に当りて、決定して道を尋ねてただちに進みて、疑怯退心を生ぜず」

 旅人は釈迦の勧めと弥陀の呼び声を聞いたので、その通りに受けとめ、少しも疑ったり怯えたり、しりごみなどすることなく、白道を進むことができたのでした。


 そして一番のポイントは、この白道は「求道心」や「聞法心」を譬えているのではないということです。

 「『中間の白道四五寸』といふは、すなはち衆生の貪瞋煩悩のなかに、よく清浄の願往生心を生ずるに喩ふ」と言われている通り、「白道」とは「他力の信心」なのです。

 『教行信証』にも、以下のように記述されています。

 まことに知んぬ、二河の譬喩のなかに「白道四五寸」といふは、白道とは、白の言は黒に対するなり。白はすなはちこれ選択摂取の白業、往相回向の浄業なり。黒はすなはちこれ無明煩悩の黒業、二乗・人・天の雑善なり。道の言は路に対せるなり。道はすなはちこれ本願一実の直道、大般涅槃、無上の大道なり。路はすなはちこれ二乗・三乗、万善諸行の小路なり。四五寸といふは衆生の四大五陰に喩ふるなり。「能生清浄願心」といふは、金剛の真心を獲得するなり。本願力の回向の大信心海なるがゆゑに、破壊すべからず。これを金剛のごとしと喩ふるなり。


 まとめるとこうなります。

   「白」    = 選択摂取の白業、往相回向の浄業
   「道」    = 本願一実の直道、大般涅槃、無上の大道
 「清浄願心」 = 金剛の真心、本願力回向の大信心海



 もう少し説明を加えますと、善導大師は「かの願力の道に乗じて」とも言われてますので、白道は「本願力」の譬えでもあります。以下、存覚上人の『浄土真要鈔』から引用します。

 しかれば、二河の譬喩のなかにも、中間の白道をもつて、一処には如来の願力にたとへ、一処には行者の信心にたとへたり。「如来の願力にたとふ」といふは、「念々無遺乗彼願力之道」といへるこれなり。こころは、「貪瞋の煩悩にかかはらず、弥陀如来の願力の白道に乗ぜよ」となり。「行者の信心にたとふ」といふは、「衆生貪瞋煩悩中 能生清浄願往生心」といへるこれなり。こころは、「貪瞋煩悩のなかによく清浄願往生の心を生ず」となり。されば、「水火の二河」 は衆生の貪瞋なり。これ不清浄の心なり。「中間の白道」は、あるときは行者の信心といはれ、あるときは如来の願力の道と釈せらる。これすなはち行者のおこすところの信心と、如来の願心とひとつなることをあらはすなり。したがひて、清浄の心といへるも如来の智心なりとあらはすこころなり。もし凡夫我執の心ならば、清浄の心とは釈すべからず。


 「白道」= 如来の願力、弥陀如来の願力の白道、行者の信心、清浄願往生の心、如来の智心

 このように仰っています。「白道」=「自力の求道心、聞法心」などという解釈が入りこむ余地などないのです。

 『一念多念証文』に、

 二河のたとへに、「一分二分ゆく」といふは、一年二年すぎゆくにたとへたるなり。


と解説されている通り、白道を進むということは、信心の行者がお念仏の人生を一年二年と過ごしていくことであって、「煩悩と闘って求道していく」ことではありません。

 高森会長としては、会員の献金や勧誘活動のモチベーションを引き出したい。そのために二河白道の譬喩をねじ曲げ、「善のすすめ」と結び付けて利用しているわけです。他のエントリーで説明しますが、親鸞聖人の御教えに「(獲信のための)善のすすめ」などないのです。

 貧富、老少、善悪の差別なく、聞く一つで救われるのが第十八願の浄土真宗です。


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当ブログについて

 当ブログは、高森顕徹氏が会長を務める「宗教法人・浄土真宗親鸞会」の邪義を破っていくものです。目に余る親鸞会の醜状を歎き、ここに真宗の正義を綴りました。

※メイン記事の最終更新は2013年の2月であり、親鸞会の教義や組織に関する情報はそれ以前のものに基づいております。

管理人:黒猫

 関東在住の念仏者です。有り難くも阿弥陀様よりご信心を恵まれ、お念仏申す人生を送っております。

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