下根の機には念仏をすすむ

【問い】

 君は「七仏通戒偈」も知らんのか。修善が獲信の障害ならば、なぜ諸仏が善のすすめを説かれるのだ。


【答え】

 『醍醐本法然上人伝記』の問答に、

 或人問て云く、常に廃悪修善の旨を存じて念仏すると、常に本願の旨を思い念仏すると何が勝れたるや。答、廃悪修善は是れ諸仏の通戒といえども、当世の我等、悉く違背せり、若し別意の弘願に乗ぜずば、生死を出で難きものか。


とあるように、末法濁世の我々は諸仏通戒の廃悪修善(散善)に悉く違背していますから、阿弥陀仏の本願によらなければ生死を離れることはできないのです。

 『御消息』に親鸞聖人は、

 浄土宗のなかに真あり、仮あり。真といふは選択本願なり、仮といふは定散二善なり。選択本願は浄土真宗なり、定散二善は方便仮門なり。


と教えられています。弘願門と要門はそれぞれ別の法門であり、定散二善は浄土真宗ではありません。

 定散二善とは、『教行信証』に、

 二善・三福は報土の真因にあらず。諸機の三心は自利各別にして、利他の一心にあらず。如来の異の方便、欣慕浄土の善根なり。


と書かれている通り、欣慕浄土の善根です。

 欣慕浄土の善根とは、浄土を願い慕わせるための善根ということで、聖道門の行者を浄土門へ導くための方便として機能します。『観無量寿経疏』に、

 また決定して深く、釈迦仏、この『観経』の三福・九品・定散二善を説きて、かの仏の依正二報を証讃して、人をして欣慕せしめたまふと信ず。


とあり、『西方指南抄』で法然上人が、

 第十九の願は、諸行之人を引入して、念仏之願に帰せしめむと也


と仰っている通りです。

 定散二善の行体は聖道門の諸行と同じ此土入聖の行です。自らの修行をそのまま往生の行に転換させるだけですから、要門は聖道門の行者に馴染みやすく、難行に行き詰まっている人を誘引する方便として用いられるのです。

 さて、この定散二善、つまり諸行は善人のための方便ですから、悪人には用いられません。下品下生の私達には、はじめから念仏一行の他に方便はないのです。存覚上人の『持名鈔』にはこうあります。

 薬をもつて病を治するに、かろき病をばかろき薬をもつてつくろひ、おもき病をばおもき薬をもつていやす。病をしりて薬をほどこす、これを良医となづく。如来はすなはち良医のごとし。機をかがみて法を与へたまふ。しかるに上根の機には諸行を授け、下根の機には念仏をすすむ。これすなはち、戒行もまつたく、智慧もあらんひとは、たとへば病あさきひとのごとし。かからんひとをば諸行のちからにてもたすけつべし。智慧もなく悪業ふかき末世の凡夫は、たとへば病おもきもののごとし。これをば弥陀の名号のちからにあらずしてはすくふべきにあらず。


 病の軽い上根の機には諸行という軽い薬、病の重い下根の機には念仏という重い薬、仏様はこのように応病与薬されます。「智慧もなく悪業ふかき末世の凡夫は(中略)弥陀の名号のちからにあらずしてはすくふべきにあらず」だからです。

 ですから『浄土和讃』には、

 五濁悪時悪世界 濁悪邪見の衆生には 弥陀の名号あたへてぞ 恒沙の諸仏すすめたる


と説かれており、濁悪邪見の衆生に諸仏が与えるのは、諸行ではなく、はじめから弥陀の名号なのです。

 第十九願の果てに獲信があるのではありません。方便の教えである諸善はすてて、本願の行である念仏を称えて下さい。


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冷静に読ませてもらったら、「どちらがウソか」分かりそうな気がします。応援してます。頑張ってください。


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当ブログについて

 当ブログは、高森顕徹氏が会長を務める「宗教法人・浄土真宗親鸞会」の邪義を破っていくものです。目に余る親鸞会の醜状を歎き、ここに真宗の正義を綴りました。

※メイン記事の最終更新は2013年の2月であり、親鸞会の教義や組織に関する情報はそれ以前のものに基づいております。

管理人:黒猫

 関東在住の念仏者です。有り難くも阿弥陀様よりご信心を恵まれ、お念仏申す人生を送っております。

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