念仏の行者もし往生せずは、われも正覚を取らじ

 以前のエントリーで、「若不生者 不取正覚」=「わが浄土にもし生れずは仏に成らじ」であることを示しました。

 親鸞会の「若不生者 不取正覚」=「もし信楽に生まれさせることができなければ私は命を捨てる」という解釈は大間違いです。

参照:「若不生者 不取正覚」といふは


 「わが浄土にもし生れずは仏に成らじ」と誓われ、既に菩薩は成仏されているのですから、南無阿弥陀仏は「必ず往生させる」という仰せなのです。

 では、どんな者を「必ず往生させる」と仰っているのかと言うと、『尊号真像銘文』に、

このこころはすなはち至心信楽をえたるひと、わが浄土にもし生れずは仏に成らじと誓ひたまへる御のりなり。


とありますように、当然「至心信楽をえたるひと」、他力の信心を獲得した人を浄土へ連れてゆくと約束されています。信心獲得とは『御文章』に、

信心獲得すといふは第十八の願をこころうるなり。この願をこころうるといふは、南無阿弥陀仏のすがたをこころうるなり。


と教えられている通り、第十八願、南無阿弥陀仏のすがたを心得ることでした。言い換えれば、仏願の生起本末です。これを『持名鈔』から伺ってみましょう。

おほよそ阿弥陀如来は三世の諸仏の本師なれば、久遠実成の古仏にてましませども、衆生の往生を決定せんがために、しばらく法蔵比丘となのりて、その正覚を成じたまへり。かの五劫思惟のむかし、凡夫往生のたねをえらび定められしとき、布施・持戒・忍辱・精進等のもろもろのわづらはしき行をばえらびすてて、称名念仏の一行をもつてその本願としたまひき。「念仏の行者もし往生せずは、われも正覚を取らじ」と誓ひたまひしに、その願すでに成就して、成仏よりこのかたいまに十劫なり。 如来の正覚すでに成じたまへり、衆生の往生なんぞ疑はんや。


 これが仏願の生起本末です。底下の凡夫でも往生できるよう、菩薩は勝易具足する称名念仏を本願の行とされました。何の善もできない悪凡夫でも往生させる勝れた行、臨終を迎えた悪凡夫でも間に合う易しい行です。この念仏を称える衆生は必ず往生できるのです。

 法然上人は『和語灯録』に、

心の善悪をもかへり見づ、つみの軽重をも沙汰せず、ただ口に南無阿弥陀仏と申せば、仏のちかひによりて、かならず往生するぞと、决定の心ををこすべき也。その決定の心によりて、往生の業はさだまる也。往生は不定におもへば不定也。一定とおもへば一定する事也。詮じてはふかく仏のちかひをたのみて、いかなる過をもきらはず、一定むかへ給ぞと信じて、うたがふ心のなきを深心とは申候也。


と仰り、『西方指南抄』には、

しかればたれだれも、煩悩のうすくこきおもかへりみす、罪障のかろきおもきおもさたせず、ただくちにて南無阿弥陀仏ととなえば、こゑにつきて決定往生のおもひをなすべし、決定心を、すなわち深心となづく。その信心を具しぬれば、決定して往生するなり。詮ずるところは、ただとにもかくにも、念仏して往生すといふ事をうたがはぬを、深心とはなつけて候なり。


と書かれています。

 自身の善悪や罪の軽重は問題とせず、ただ専ら念仏を称え、必ず浄土に往生できると思いなさい。念仏往生を誓われた第十八願を深く信じてお任せしなさい、と仰っているのです。これを「就行立信」と言います。仏が説示された往生の行に就き順って深信を建立する、ということです。

 『御消息』で親鸞聖人が、

行と申すは、本願の名号をひとこゑとなへて往生すと申すことをききて、ひとこゑをもとなへ、もしは十念をもせんは行なり。この御ちかひをききて、疑ふこころのすこしもなきを信の一念と申せば、信と行とふたつときけども、行をひとこゑするとききて疑はねば、行をはなれたる信はなしとききて候ふ。また、信はなれたる行なしとおぼしめすべし。


と教えられている通り、名号を称える者を往生させるという本願を疑いなく聞き入れ、はからいなく念仏している人を信心の行者と言うのです。

 つまり、本願を信じる(信心)ということは、名号を称える(念仏)ことなのです。「行をはなれたる信」もなければ、「信をはなれたる行」もありません。高森会長は念仏を軽視しますが、それは真宗のイロハもわかっていない何よりの証拠です。

本願のなかにさらに余行なし。三輩ともに上の本願によるがゆゑに、「一向専念無量寿仏」といふ。(中略)あきらかに知りぬ、諸行を廃してただ念仏を用ゐるがゆゑに一向といふ。


『選択本願念仏集』にあり、『持名鈔』にも、

おほよそ「一向専念無量寿仏」といへるは、『大経』の誠説なり。諸行をまじふべからずとみえたり。「一向専称弥陀仏名」と判ずるは、和尚の解釈なり。念仏をつとむべしときこえたり。


と明示されています。雑行を捨てて念仏を称えることが廃立であり、一向専念無量寿仏なのです。教えに真っ向から背いている親鸞会に、信心獲得する人が皆無なのは当然のことです。

 他の方便はありません。念仏一行が往生極楽の道です。会員さんにわかりやすいように言えば、「念仏の信心一つで助かる」ということです。


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 当ブログは、高森顕徹氏が会長を務める「宗教法人・浄土真宗親鸞会」の邪義を破っていくものです。目に余る親鸞会の醜状を歎き、ここに真宗の正義を綴りました。

※メイン記事の最終更新は2013年の2月であり、親鸞会の教義や組織に関する情報はそれ以前のものに基づいております。

管理人:黒猫

 関東在住の念仏者です。有り難くも阿弥陀様よりご信心を恵まれ、お念仏申す人生を送っております。

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