第十九願の対機

【問い】

 19願にも「十方衆生」と誓われているのだから、19願を通らねば蟻一匹助からないのは当然だろう。


【答え】

 第十八願と第十九願の「十方衆生」では、それぞれその中身が異なります。正依の『大無量寿経』と異訳本を比較すれば明らかです。

 『大無量寿経』第十八願の「十方衆生」
 =『無量清浄平等覚経』第十七願の「諸天人民蠕動之類者」
 =『大阿弥陀経』第四願の「諸天人民蜎飛蠕動之類」
 =諸々の神々や人々や虫の類

 『大無量寿経』第十九願の「十方衆生」
 =『無量清浄平等覚経』第十八願の「諸佛國人民有作菩薩道者」
 =『大阿弥陀経』第七願の「八方上下無央數佛國諸天人民若善男子善女人有作菩薩道」
 =諸々の仏国土の菩薩道を作す者



 『大無量寿経』の第十八願に相当する誓願の対機は、生きとし生ける全てのものです。救いから漏れるものはありません。

 一方、『大無量寿経』の第十九願に相当する誓願の対機は、菩薩道を行ずる者に限られています。菩薩の行を行えないような悪人は対機ではないのです。

 菩薩の行とは、定散二善に集約される一切善行のことです。親鸞会では、お勤めが定善であり、会での活動が散善であるように思われているかもしれませんが、全くの間違いです。

梯實圓著『顕浄土方便化身土文類講讃』のp250より引用

 『観経』の散善顕行縁には、世、戒、行の三福散善を指して、「三世諸仏の浄業正因なり」といわれているように、諸仏の成仏道であった。また定善は、真身観に「無量寿仏を見たてまつれば、すなはち十方無量の諸仏を見たてまつる。無量の諸仏を見たてまつることを得るがゆゑに、諸仏は現前に授記す」といわれているように、諸仏から成仏の授記を得るための「般舟三昧」の行であった。したがって定散諸善の行体は、聖道門の諸行と同じ此土入聖の行であった。


※「授記」とは、仏が修行者に対し、未来の成仏を予言して保証を与えること。

※定善と散善について、詳しくは「定善と散善①」、「定善と散善②」、「定善と散善③」を参照。


 高森会長は19願の軌道に乗る乗らないなどの話をしますが、親鸞会の会員が定散二善を実践できるわけがありません。定善や散善が実践可能な善人のためではなく、一生悪業にまつわられ、罪深くしか生きられない煩悩具足の凡夫のために阿弥陀仏の本願があるのです。

 また、第十八願にのみ「唯除五逆誹謗正法」と逆謗抑止の文があるのは、第十八願の救済の対象となっている機は、五逆をつくり正法を誹謗するような、極悪の者を含めた十方衆生だからです。『尊号真像銘文』にて、

 「唯除五逆誹謗正法」といふは、「唯除」といふはただ除くといふことばなり、五逆のつみびとをきらひ、誹謗のおもきとがをしらせんとなり。このふたつの罪のおもきことをしめして、十方一切の衆生みなもれず往生すべしとしらせんとなり。


と説かれています。善悪や賢愚を選ばず、一切の衆生を対機とされているのが第十八願です。第十九願にこのような抑止の文がないのは、逆謗を抑止する必要のない善人を対機としているからです。

 そして、「化身土文類」の冒頭には、阿弥陀仏が第十九願を建立し、釈迦が要門を説かなければならなかった理由が書かれています。

 しかるに濁世の群萌、穢悪の含識、いまし九十五種の邪道を出でて、半満・権実の法門に入るといへども、真なるものははなはだもつて難く、実なるものははなはだもつて希なり。偽なるものははなはだもつて多く、虚なるものははなはだもつて滋し。ここをもつて釈迦牟尼仏、福徳蔵を顕説して群生海を誘引し、阿弥陀如来、本誓願を発してあまねく諸有海を化したまふ。すでにして悲願います。修諸功徳の願と名づく。


 まず、様々な外道から人々を解放して、真実に導くため、釈迦は聖道門(半満・権実の法門)を説いて彼らを誘引してゆかれたのだと仰っています。しかし、真実を悟る者はまれであり、虚偽から脱け出すことができずに流転する者がほとんどでした。

 そこで釈迦は、要門(定散の諸行を修めて浄土往生を願う教え)を説いて、群生を浄土門へと導かれました。その背後には、聖道門に行き詰まって悩む未熟の機を調育し、真実の法門に誘引するために誓われた悲願、すなわち修諸功徳の願(第十九願)があったのだということです。

 菩提心を発して諸行を修し、此土において悟りを開こうとしていたが、あまりの厳しさに此土での修行成就を断念してしまった聖道門の機が、浄土願生の心を起こしてその行を回向すれば、臨終に来迎して往生させようと誓われた願が第十九願です。

 つまり、第十九願は聖道門の者を浄土門へ誘引するための方便だということです。浄土門の行者に用いられる方便ではありません。

 また、第十九願が方便願であるというのは、願海真仮論を確立された親鸞聖人の御教えにおいて言われることであって、自力諸行の機は第十九願を方便願だとは思っていません。方便を方便と知っていながら、その方便を実践するようなことはないのです。

 第十九願は自力諸行往生を誓われた願であり、すでに第十八願の他力念仏往生を願う行者には必要ありません。末法五濁の今日、悪人正機の浄土真宗の御教えを聞かせて頂く私達は、真仮を区別し、方便願を離れ、ただ選択本願を聞信すればよいのです。

 第十八願の救いを求めている者が、自力諸行に励む必要はありませんし、方便に止まっていてはいつまでたっても信心を頂くことができません。「選択本願は浄土真宗なり」(御消息)と言われている通り、浄土真宗とは第十八願のことです。諸行往生ではないですから、「善のすすめ」などありません。「念仏する者を必ず往生させる」という念仏往生の願をはからいなく信じて、念仏を称えて下さい。


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 半満権実の法門内にあって虚なる者、偽なる者を誘引して浄土門に入らしめんとするのが19願の願意であると祖師はみられていた(化身土巻最初のご自釈)。また、濁世の道俗を誘引して念仏の真門に入らしめんとする小経の願意について祖師は化身土巻に「それ濁世の道俗、すみやかに圓修至徳の真門にいりて難思往生を願うべし」と述べられている。これらのご自釈によって、「俗」なる凡夫の私は、19願の行体である定善散善を修してから真門に入るのではなく、速やかに念仏の真門に入るべきことが分かる。そして、総序において「行にまどい信にまどい悪おもく障りおほき者、かならず最勝の直道に帰してもっぱらこの行につかえ、ただこの信をあがめよ。」と祖師がただただ南無阿弥陀仏ばかりを勧められているは、弥陀の願心を信知した祖師の叫びである。ここで行と信にまどっている者とは、修善の行が信を得るためのよき縁になると行について思い違いをし、また如来の願心を知らずに信を求めて求道している者のことである。祖師が大行と指定されたのは「無碍光如来の御名を称する」ことであり、この行によって他力の信が確立されるのである。すなわち、弥陀如来が私を浄土に招喚するにあたって私に行じることを勅命された行がこの称名行である。この勅命に信順して南無阿弥陀仏と念仏するのが浄土の真宗である。行も信もともに弥陀如来の願から与えられたものであるから、生死の穢れのあるこの世を超越し、大涅槃を証することができるのである。私が行ずるべき行信も果も横超他力である。この横超他力を真宗というのである。
 すみやかに念仏往生の門に入るために、永く高森顕徹なる悪知識から離れ、弥陀招喚の願心をそのまま受け入れて念仏往生が決定されることを全会員に願います。


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当ブログについて

 当ブログは、高森顕徹氏が会長を務める「宗教法人・浄土真宗親鸞会」の邪義を破っていくものです。目に余る親鸞会の醜状を歎き、ここに真宗の正義を綴りました。

※メイン記事の最終更新は2013年の2月であり、親鸞会の教義や組織に関する情報はそれ以前のものに基づいております。

管理人:黒猫

 関東在住の念仏者です。有り難くも阿弥陀様よりご信心を恵まれ、お念仏申す人生を送っております。

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