親鸞会会員の皆様へ

 
 初めまして、管理人の黒猫です。私が現役会員の方々にお伝えしたいことは、以下の三点です。


一、どのように批判されているのか、自分できちんと確認するべき。

 会員の方々にとって高森会長の正しさは絶対であり、本願寺や親鸞会批判サイトの主張は間違っているというのが共通認識だと思います。

 しかしながら、実際に本願寺の書籍や批判サイトを読んだことのある方は少ないはずです。相手の主張を聞きもしない内に、頭から間違っていると決め付けてしまっているわけです。

 「親鸞会が正しいに決まっている」という根拠のない安心感に浸るのではなく、きちんと自分の目と耳で確認するべきです。


二、現代にも善知識はおられるし、親鸞会を離れても浄土真宗の教えは聞ける。

 会員の方々には「善知識は高森先生お一人」、「親鸞会以外で正しい教えは説かれていない」という思いがあるでしょう。親鸞会内では情報操作が徹底されているので、そう思い込まされているのです。

 実際は現代にも善知識は沢山おられますし、親鸞会を離れても浄土真宗は聞けます。

 正確に言えば、親鸞会を離れない限り本当の浄土真宗は聴聞できません。


三、信心決定は「難しい」ことではない。

 「全ての人が救われる」と聞きながらも、信心決定することは「難しい」という意識が会員の方々にはあると思います。

 しかし、信心決定は「難しい」ことではありませんし、いつかどこかでの話でもありません。他力より回向される信心だからです。

 当ブログを通し、親鸞聖人が「凡小修し易き真教、愚鈍往き易き捷径なり」と言われたこころを知って頂ければと思います。

 正しい名号のいわれを聞けば、その時その場で救われます。


コメントの一覧

お尋ね

はじめまして黒猫さん。こねこといいます。

ちょっと唐突で申し訳ないのですが、実は、ちょっと困っているので、ねこつながりで(笑)お助けいただきたいのです、、、

というのは、雑行についてのことなんです。
ハッキリいって、僕には理解が難しく正反対の解釈のどちらが正しいのか、考えるための情報が少なすぎるんです。

飛雲さんは、雑行は自力で簡単に捨てれるってハッキリ書いているんですけど、他の人でそこまで書いてる人を見たことがないので、他の人のご意見を聞いてみたいなって思ったんです。

今、ぶるうのさんと宮田さんにも聞いているんですが、お忙しいのか、まだお返事はいただけていません。

まずひとりだけでもお答えくださる方があると、僕も未来が見えてくるような気がするんですが、今は正直モンモンとしています、、、

お忙しいと思うのですが、雑行(五雑行でなくて、往生のためにする諸善万行・阿弥陀さまに向かったの善)も、自力で簡単に捨てれるのでしょうか?

それとも、一念でないと廃らないのでしょうか?

黒猫さんのご意見を聞かせてもらえないでしょうか。

よろしくお願いしますm(_ _)m

このコメントは削除致しました。

申し訳ありません。このコメントの内容に関しては再考の余地があると判断し、削除させて頂きました。

No title

※一つ上のコメントを削除するにあたって、ブログのシステム上、後から編集し直すことはできないため、一旦このコメントも削除させて頂きました。こねこさんのお名前で、私が再度書き込む形をとらせて頂いております。(管理人より)

~以下、こねこさんのコメント~

黒猫さん、お忙しい中ありがとうございます。
色んな方にお答えいただき、とても参考になります。

なるほど、では、
「雑行は信前に、自分の力で簡単に捨てれるか」
という表現でどうでしょう?

ただ、飛雲さんは、「雑行は自力で捨てれる」と書いていたような、、、
後で調べてみます。

あ、それと、先ほど宮田さんの回答を読んだのですが、
どうも、蓮如上人だけは例外のようで、蓮如上人のいわれる雑行は、他力で一念で廃るようです。(雑行=自力心)

ここは飛雲さんと意見が違うように思うのですが、、、
飛雲さんの主張は、雑行(蓮如上人のいわれる雑行も含めて)は信前で簡単に自分で捨てれるし、雑行はあくまで行であって心ではないというものと理解しています。

黒猫さんの場合はどちらに賛成でしょうか?

教えていただけるとさいわいですm(_ _)m

こねこさんへ

改めて返答致します。遅くなりました。

まず、「雑行は信前に捨てることができるか」という問いですが、答えはイエスで捨てることができます。

もともと雑行をしていなかった人に関しては、捨てる必要もありません。

雑行の定義としては、以下の通りです。

・一切の定散の諸善ことごとく雑行と名づく、六種の正に対して六種の雑あるべし。雑行の言は人・天・菩薩等の解行雑するがゆゑに雑といふなり。もとよりこのかた浄土の業因にあらず、これを発願の行と名づく、また回心の行と名づく、ゆゑに浄土の雑行と名づく、これを浄土の方便仮門と名づく、また浄土の要門と名づくるなり。(愚禿鈔)

信心獲得の一念に行は関係ありませんから、雑行は信前に捨てるものだということは明白です。

親鸞会の方は「聞」の意味がわかっていないため、このことが理解できないのです。

「聞」についてはこのブログで詳しく説明しています。


次に、私は『御文章』の「雑行」をわざわざ「ここは行の意。ここは自力心の意」などと読み分けてはいません。

「雑行」は「雑行」としてそのまま読んでいます。

だからといって、別に宮田さんと法論する必要性は感じません。


宮田さんも飛雲さんも、ぶるうのさんも私も、言っていることは一つです。

「弥陀をたのめ」です。

こねこさんにとって大事なこともこれ一つです。

雑行や自力についてあれこれと考えて、こねこさんに何の得があるのでしょうか。

我々は第十八願の他力念仏往生の法門だけ聞けばそれでよいのです。

弘願だけでは足りぬと言う高森親鸞会は浄土真宗ではありません。

雑行は一念で廃らない?

★確認★

黒猫さんも、

「一念ですてる(廃る)雑行などない」

という主張ですね。

新人太郎(飛雲太郎)さんは、そう主張していますから。


得意の煙幕はらずに、

「ある」「ない」でシンプルに答えてね(^^)


。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。


飛雲太郎さんが

「一念ですてる(廃る)雑行などない」

と言った根拠

 ↓↓↓↓


■たんぽぽさんのコメント:

「もろもろの雑行雑修自力のこころをふりすてて、
 一心に阿弥陀如来、われらが今度の一大事の後生、
 御たすけ候へとたのみまうして候ふ。
 たのむ一念のとき、往生一定御たすけ治定」

雑行が廃るのは、たのむ一念のときです。

信心決定まで、雑行は廃りません。

自力(信前)と他力(信後)は水際立ちますが、

自力(信前)に水際たつものはありません。

19願も20願も信前です。


■新人太郎(飛雲太郎)さんのコメント:

どこに、

雑行が廃るのは、たのむ一念のとき

とありますか?どこに同時とあります?
嘘を言わないように。


■たんぽぽさん

「聖人の御流は、たのむ一念のところ肝要なり。

 故に、たのむということをば代々あそばしおかれ候えども、

 くわしく何とたのめということをしらざりき。

 然れば前々住上人(蓮如上人)の御代に『御文』を御作り候いて、

 「雑行をすてて、後生たすけたまえと一心に弥陀をたのめ」

 とあきらかにしらせられ候。

 然れば御再興の上人にてましますものなり」

    『蓮如上人御一代記聞書』

■新人太郎(飛雲太郎)さんのコメント:

「雑行をすてて、後生たすけたまえと一心に弥陀をたのめ」は、
雑行を捨てて、その後で、後生たすけたまえとですが。
どこに、雑行を捨てたと同時に弥陀をたのめとあるのですか?


■たんぽぽさん

蓮如上人は「たのむ一念」のことを、

「雑行をすてて、後生たすけたまえと一心に弥陀をたのめ」

といわれているのですから、一念同時ですよね。

一念に時間差があるのでしょうか?

雑行が廃るのは、たのむ一念ですから、信心決定するまで雑行は廃りません。

信前に、水際立つものはありません。

19願、20願は信前です。


※この後、新人太郎(飛雲太郎)さんは、

 五雑行のご文を出してきて、「一念」でないと主張を始め、

 最後まで「一念」ではないと言い張る。

。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。


「雑行をすてて、後生たすけたまえと一心に弥陀をたのめ」は一念同時ではない。

        投稿: 飛雲 | 2014年1月14日 (火) 20時34分


。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。


まあ、まさか宮田さんが、蓮如上人がいわれた雑行は一念で廃るものが多いといったからって、「一念で廃る雑行もある」なーんて言い出さないでしょうね。

言ったら、ほんとこっぱずかしいというか、敗北決定の上、人間としての信用はゼロ、いや物凄いマイナスになりますからね。

玉見さんへ

私が煙幕を張ったことがありましたかね。まぁいいですが。

こねこさんへのコメントで書いた通り、私の解釈では「ない」です。

だから何ですか?

No title

>黒猫さんも、
>
>「一念ですてる(廃る)雑行などない」
>
>という主張ですね。

という私からの問いに

>こねこさんへのコメントで書いた通り、私の解釈では「ない」です。

という明確な返答、確かに、確認しました。

飛雲さんと違って、ぽいんとをスッキリ答えて素晴らしいです。
飛雲さんも黒猫さんみたいにズバリ答えてもらいたいものです。

でも、黒猫さんは、前(こねこさんへの返答)みたいに削除して訂正したり、「答えていない」なんていいださないでくださいね(^^)
ではまた。

この雑行も一念ですてる(廃る)雑行ではないのですか?

では、この雑行は?

■帖外御文 138(7)

無善造悪のわれらが一念にもろもろの雑行をすてて、

一心一向に弥陀如来にふたごころなく帰命する衆生が

如来の仏心となりき、やすくたすけすくいたまうことは

不思議なり


。。。。。。

まさか、臨終切れ際の人への待機説法だなんていわないでくださいよ。

念の為にいっておきますが、得意の三選の文を出してもだめですよ。
あれは、五雑行ですからね。
それに「五雑行は諸善万行を収めたもの」との主張も今は関係ありませんよ。

私は、一念で廃る雑行と、信前に捨てれる雑行(五雑行。三選の文の雑行も含む)と二つあると言っているのですから。

あなたは、(例外的な状況を除いて)、雑行は、信前に捨てれる一種類しかないという主張です。

それを破る根拠をあげました。

この

「われらが一念にもろもろの雑行をすてて」

の雑行は一念にすてる(廃る)雑行ですか?そうではありませんか?

お答えください。

コメント承認もたのみますよ!!

No title

「弥陀経往生といふは、植諸徳本の誓願によりて不果遂者の真門にいり、善本徳本の名号を選びて万善諸行の少善をさしおく。」(三経往生文類)
「経家は一切諸行の少善を嫌貶して、善本・徳本の真門を開示し、自利の一心を励まして難思の往生を勧む。」(教行信証化土巻)

共に、諸善を嫌い貶め捨てて念仏を選択するのが20願の行者ですが、おかしいですね?

19願から20願を通って18願に入る、が必然のコースなら、20願に入った時点で諸善を捨てていますから、一念で諸善を捨てるのではありませんよ。

それとも、三願転入のコースは必然ではないのですかね。

玉見さんへ

さて、返答が遅くなりました。

まず「一念」について再確認しましょうか。

一念には「時剋の一念」と「信相の一念」がありますが、いま問題にしているのは前者ですね。

・一念とはこれ信楽開発の時剋の極促を顕し、広大難思の慶心を彰すなり。(信文類)

・「一念」といふは、信心をうるときのきはまりをあらはすことばなり。(一多証文)

一念とは、信心が開け発った最初の時のことです。

「時剋の極促」の「促」について親鸞聖人は、「延促対」と「奢促対」で解されています。

まず「延促対」については、

・また「乃至一念」といふは、これさらに観想・功徳・遍数等の一念をいふにはあらず。往生の心行を獲得する時節の延促について乃至一念といふなり、知るべし。(浄土文類聚鈔)

とあります。「延(のびる)」に対しての「促(ちぢまる)」は、「ちぢまりきった極限」という意味で、「極促」は獲信の初際をあらわすわけです。

次に「奢促対」ですが、

・「奢」はおそきこころなるものあり、「促」は疾きこころなるものあり。(尊号真像銘文)

とあるように、「奢(おそし)」に対する「促(とし)」は、速いという意味です。

・「即」の言は願力を聞くによりて報土の真因決定する時剋の極促を光闡するなり。(行文類)

の「極促」の左訓には、「きはめて ときなり」と書かれています。

親鸞聖人は「時剋の極促」を極めて速い時間だと教えられ、ないし時間の経過を見ないで事柄が実現するという時間の極限を「一念」と仰っているのです。

もはや時間とは言えないような特殊な時間です。


一方、「雑行」とは何でしょうか。

蓮如上人は御自分で明確な定義をされていませんが、当然ながら親鸞聖人と同じ解釈で使用されているのでしょう。

・雑行とは、正助を除きて以外をことごとく雑行と名づく。これすなはち横出・漸教、定散・三福、三輩・九品、自力仮門なり。(化身土文類)

・それ雑行・雑修、その言一つにして、その意これ異なり。雑の言において万行を摂入す。五正行に対して五種の雑行あり。雑の言は、人・天・菩薩等の解行、雑せるがゆゑに雑といへり。もとより往生の因種にあらず、回心回向の善なり。ゆゑに浄土の雑行といふなり。(化身土文類)

・おほよそ浄土の一切諸行において、綽和尚は「万行」といひ、導和尚は「雑行」と称す。感禅師は「諸行」といへり。信和尚は感師により、空聖人は導和尚によりたまふ。(化身土文類)

・上よりこのかた一切の定散の諸善ことごとく雑行と名づく、六種の正に対して六種の雑あるべし。雑行の言は人・天・菩薩等の解行雑するがゆゑに雑といふなり。もとよりこのかた浄土の業因にあらず、これを発願の行と名づく、また回心の行と名づく、ゆゑに浄土の雑行と名づく、これを浄土の方便仮門と名づく、また浄土の要門と名づくるなり。おほよそ聖道・浄土、正雑、定散、みなこれ回心の行なりと、知るべし。(愚禿鈔)

「雑行」とは正行に対する語で、「雑」は邪雑、雑多という意味です。本来はこの世で悟りを開くことを目指す聖道門の行である諸善万行を、往生行として転用したものですから「雑行」と言われます。


そして、そもそも「行」とは何でしょうか。

行とは、行為・動作・実践の意で、悟り・涅槃に至るための行業を意味します。

この「行」を捨てるということが、「時剋の一念」に関係することはありません。

そんなことは物理的に不可能であり、あり得ないからです。


こねこさんへのコメントでも書きましたが、親鸞会がこのことを理解できないのは「聞」の意味がわかっていないからです。

はじめに、一念とは信心が開け発った最初の時のことだと書きました。

信とは「聞」のことです。聞くことがそのまま信ですから、「聞即信」と呼ばれる関係にあります。

・きくといふは、本願をききて疑ふこころなきを「聞」といふなり。またきくといふは、信心をあらはす御のりなり。(一多証文)

親鸞会の会員は、「命懸けで雑行に励んでいれば、ある日突然地獄の底に堕ち、天からの声なき声を聞いて救われる」というようなイメージをもって「聞」だと思っていますが、浄土真宗はその辺のオカルトか何かとは違います。

「聞」とは、仏願の生起本末をそのまま受け入れることであり、阿弥陀仏に自分の後生を託し、任せ、委ねることです。

そして仏願の生起本末とは、「迷いの世界を脱け出すのに役立つようなものを何一つとして持っていない私のために、阿弥陀如来は『必ず往生させる』という御本願を起こされ、その御本願は『南無阿弥陀仏』という我々を必ず救う力として完成され、この私を救うためにいま現にはたらき続けている」ということです。

仏願の生起本末を疑い無く聞き入れるときに、雑行をしている人がいると思われますか?


「一念」や「聞」についての正しい理解が得られたならば、「雑行が廃るのは、たのむ一念のときです」という解釈が如何におかしいかわかるでしょう。

『御文章』に見える「雑行」を、本来の雑行の定義のまま拝読しても何ら矛盾はありません。

「一念で捨てる雑行など無い」というのが結論であり、これは大前提です。


以上のことを踏まえて、貴方が提示された帖外御文について考えてみましょう。

・無善造悪のわれらが一念にもろもろの雑行をすてて、一心一向に弥陀如来にふたごころなく帰命する衆生が如来の仏心となりき、やすくたすけすくいたまうことは不思議なり。(帖外御文)

このような書き方をされた御文は他に見当たらず、極めて例外的だと言えます。

従って、この御文をこの御文だけで読むのではなく、五帖八十通の『御文章』の立場から包括的に解釈するのがよろしいかと思います。


まず、「一念に」という言葉は、あくまで「帰命する」という部分を意識されて書かれたものと思われます。

『御文章』では常にそのような書かれ方をしているからです。

・ふたごころなく一念にわが往生は如来のかたより御たすけありけりと信じたてまつりて、… (一帖目七通)

・一念南無と帰命するところにて、… (三帖目八通)

・自余の雑行・雑善にこころをばとどめずして、一念も疑心なく信じまゐらせば、… (三帖目十三通)

・宿善開発の行者、一念弥陀に帰命せんとおもふこころの一念おこるきざみ、… (四帖目一通)

・一念に弥陀をたのむこころをふかくおこすべきものなり。(四帖目十三通)

・もろもろの雑行をすてて、一念に弥陀如来今度の後生たすけたまへとふかくたのみまうさん人は、… (五帖目二通)

・「この仏をふかくたのみて一念御たすけ候へと申さん衆生を、われたすけずは正覚ならじ」と誓ひまします弥陀なれば、… (五帖目四通)

・南無と帰命する一念の処に発願回向のこころあるべし。(五帖目五通)

・一念に弥陀をたのみたてまつる行者には、… (五帖目六通)

・この大功徳を、一念に弥陀をたのみまうすわれら衆生に回向しましますゆゑに、… (五帖目六通)

・一念に弥陀をたのみたてまつる衆生を光明のなかにをさめとりて、… (五帖目六通)

・ただ一念に弥陀をたのむ衆生はみなことごとく報土に往生すべきこと、… (五帖目六通)

・一念阿弥陀仏に帰命せば、… (五帖目十三通)

・ただ弥陀仏を一念にふかくたのみたてまつること肝要なりとこころうべし。(五帖目二一通)

蓮如上人の御教えを俯瞰する限りにおいて、「一念に」という言葉を「雑行をすてて」の部分にかけているとは考えにくいです。


そして、「雑行をすてて」という表現は、「一心一向」の対比として、弥陀に帰命することとセットで書かれる傾向があります。

・もろもろの雑行をさしおきて、一向に弥陀如来をたのみたてまつりて、… (一帖目十三通)

・もろもろの雑行をすてて専修専念・一向一心に弥陀に帰命するをもつて、… (二帖目三通)

・ただもろもろの雑行をすてて、正行に帰するをもつて本意とす。(二帖目七通)

・もろもろの雑行をすてて専修専念なれば、… (二帖目八通)

・もろもろの雑行雑善をなげすてて、一心一向に弥陀如来をたのみまゐらせて、… (三帖目四通)

・雑行雑善をなげすてて専修専念に弥陀如来をたのみたてまつりて、… (三帖目六通)

・もろもろの雑行をすてて、一向一心に後生たすけたまへと弥陀をたのめば、… (四帖目十四通)

・もろもろの雑行をすてて、ひたすら後生たすけたまへとたのまん人をば、… (五帖目八通)

・もろもろの雑行をなげすてて、一心に弥陀に帰命すれば、… (五帖目十通)

このような蓮如上人の「癖」と言いましょうか、習性から「もろもろの雑行をすてて、一心一向に弥陀如来にふたごころなく帰命する」という帖外御文の表現が出てきているものと思われます。


また、『御文章』はあくまで御手紙であり、『教行信証』のように整然とした論文ではないという点も考慮に入れるべきでしょう。

件の帖外御文に関しては、真宗の前提に立って、柔軟に解釈するのがよろしいでしょう。


権仮を強調されるのは真実を反顕しているのであり、人々が帰趨に迷わぬよう戒められているのです。

それを逆に勧め、一念まで必要なものだと主張する親鸞会は浄土真宗ではありません。

私のブログをきちんと読んで、早々に改心して下さい。


また、ネット対策員の荒らしにいつまでも付き合うつもりはありませんので悪しからず。

真面目に真宗の御教えを求める方のためならいくらでも時間を割きますが、邪な動機の者の相手をし続けるほど私も暇ではありません。

No title

玉見氏は荒らすだけ荒らして逃げてしまったようですね。
ところで、また昔のようにどんどん更新されては如何でしょうか。私は黒猫さんの雑談も結構好きでしたよ(笑)

名無しさんへ

いくつか理由があって今のスタイルにしています。

記事を更新するつもりは今のところありません。

何か書きたくなったら、また別のブログを作ると思います。

No title

先日はありがとうございました。
この御恩は一生忘れません。

みらいさんへ

私への恩なんか早く忘れた方がいいです(笑)

気持ちを新たにして、素敵な人生を築いていって下さい。

私を縁として御本願を聞信して下さった方は貴方で三人目です。

ブログを書いた甲斐がありました。嬉しいです。


コメントの投稿

秘密

 
当ブログについて

 当ブログは、高森顕徹氏が会長を務める「宗教法人・浄土真宗親鸞会」の邪義を破っていくものです。目に余る親鸞会の醜状を歎き、ここに真宗の正義を綴りました。

※メイン記事の最終更新は2013年の2月であり、親鸞会の教義や組織に関する情報はそれ以前のものに基づいております。

管理人:黒猫

 関東在住の念仏者です。有り難くも阿弥陀様よりご信心を恵まれ、お念仏申す人生を送っております。

南無阿弥陀仏

目次
サイトマップ

全ての記事を表示

推薦書籍
お問い合わせ

お名前
メールアドレス
件名
本文

リンク