定善と散善②

梯實圓著『親鸞聖人の教え・問答集』のp163~166より引用

Q.善・悪という言葉の定義はわかりましたが、仏教では具体的に、どのような行為を善とし、悪とみなして人びとを教化してきたのですか。

A.善と悪の行為を具体的に説かれているのは『観経』です。そこでは極楽という阿弥陀仏の浄土へ往生することのできる徳をもっている行為を善といい、地獄や餓鬼や畜生といった悪道に堕ちる行為を悪とされています。

Q.まず善なる行為とは、どんな行いですか。

A.法然上人は『選択集』念仏付属章に、『観経』に説かれている善行、すなわち往生の因となる行を分類すると、定善と散善と念仏という三種の行になると言われています。その定善と散善は自力の行であり、念仏は他力の行です。

Q.定善とは、どういう善行ですか。

A.浄土の有様や、阿弥陀仏のお姿を心眼で見ていく行です。

Q.心眼とは何ですか。

A.肉眼に対して心の眼のことです。修練によって心を研ぎ澄ましていきますと、肉眼では見えない世界が、心の眼ではっきりと見えるようになります。そのための修行が定善です。善導大師は、それを「慮りをやめて、もって心を凝らす」と言われています。
 心は五官を通して外部の刺激を受けて絶えずゆれ動いていますし、また心はいろんなことを思い続けています。そこで心を一点に集中することによって、外からの刺激にも、内からの想念にも乱されることがなくなり、水が氷になったように静かに、安定して動かなくなった状態を「定」といいます。インドの言葉ではサマーディ(三昧)といいます。
 「定」の状態は妄念・煩悩が静まり、浄化されていますから「善」の性質をもっています。だから「定善」というのです。池の水が波立っていますと周囲の景色は歪んでしか映りません。しかし、風が止んで、水面が鏡のように静まると、周囲の景色があるがままに映り込むように、心の乱れがなくなると、妄念・煩悩によって歪められていた迷いの世界が消えて、経典に説かれている通りに真実の世界が心に映ってきます。それを智慧をもって確認することを「観」とも「観察」「観念」ともいいます。そこで定善を定観ともいうのです。

Q.『観経』には、どのような定善観が明かされているのですか。

A.『観経』には、韋提希夫人の要請に応じて、十三種類の観念の法が説かれています。これを定善十三観と呼んでおります。そのなか第一観から第七観までは、浄土の有様を観ずるので依報観といい、第八観から第十三観までは、浄土の主である阿弥陀如来とその左右の脇士である観世音菩薩と大勢至菩薩を観ずるので正報観といいます。

Q.依報観とか正報観とは、どういうことですか。

A.依報とは、衆生(主体)の生活の拠り所となる生活環境のことで、一般には山河大地など国土を指します。それに対して正報とは、業報の正しき主体である衆生そのものを指します。
 今は法蔵菩薩の願行を因として報い現われた仏・菩薩を正報といい、その仏・菩薩が受用されている境界を依報というのです。

Q.私どもの心は、深い眠り(極睡眠)に入っているとか、意識もなくなるほどの気絶状態(極悶絶)に陥っているとき以外は、一瞬の絶え間もなく動揺し続けておりますから、定善を完成することは果たしてできるのでしょうか。

A.確かに困難な修行で、容易に完成はできません。しかし極めて優れた能力を持ち、超人的な修行に耐えられる人は観念を成就し、生きながらにして浄土にいたって如来の説法を聞くことのできた方もいらっしゃいます。中国の善導大師や懐感禅師、それに法照禅師などはその極めて希な方です。
 しかし善導大師は「定善義」に、「この観念を実現しようと思ったら、完全に世俗と縁を切り、道場にこもって、あらゆる感覚器官を閉じて、何も見ず、聞かず、思わず、死人のようになってひたすら禅定を修するならば、必ず完成する。もしそうしないならば、たとひ千年の寿を尽くせども、法眼いまだかつて開けず」と誡められているように難行に違いありません。



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 当ブログは、高森顕徹氏が会長を務める「宗教法人・浄土真宗親鸞会」の邪義を破っていくものです。目に余る親鸞会の醜状を歎き、ここに真宗の正義を綴りました。

※メイン記事の最終更新は2013年の2月であり、親鸞会の教義や組織に関する情報はそれ以前のものに基づいております。

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 関東在住の念仏者です。有り難くも阿弥陀様よりご信心を恵まれ、お念仏申す人生を送っております。

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