聞即信ということ

高森顕徹著『こんなことが知りたい②』のp153~157より引用

 聞即信という言葉は、阿弥陀仏が私達を絶対の幸福に救済して下される時のことを表す、真宗にとっては極めて大切な言葉です。(中略)
 聴は上辺の心が善知識の御教化をきいて合点して有り難がっているきき方ですが、聞は下の心のドン底に、阿弥陀仏の呼び声がきこえた時のきき方をいうのです。
 だから聴は何十回何百回でもありますが、聞というきき方は一生にたった一度キリしかありません。(中略)
 この驚天動地の一念の体験を聞即信というのですから、この阿弥陀仏の御声をジカに聞くまで、聞きぬきましょう


 信心決定している者が読めば、一発で異安心とわかる文章です。なぜなら、浄土真宗における「聞」とはそれがそのまま「信」であり、信心は生涯にわたって相続するからです。「聞」は一度きりのことではありません。

 このことは『一念多念証文』に、

「聞其名号」といふは、本願の名号をきくとのたまへるなり。きくといふは、本願をききて疑ふこころなきを「聞」といふなり。またきくといふは、信心をあらはす御のりなり。


と説かれ、『浄土和讃』で、

光明てらしてたえざれば 不断光仏となづけたり 聞光力のゆゑなれば 心不断にて往生す 『浄土和讃』


と教えられています。

 ちなみに、「聞光力」の左訓には「弥陀の御おんちかひを信じまゐらするなり」とあり、「心不断」の左訓には「弥陀の誓願を信ぜる心たえずして往生すとなり」とあります。

 浄土真宗においては、聞くこと、聞いていることがそのまま信心なのですが(聞即信)、何を聞くのかと言えば「名号(のいわれ)」です。

 名号とは、一般には諸仏や諸菩薩の名前のことですが、浄土教では特に阿弥陀仏の名を指します。そして、阿弥陀仏の名号は単なる名前ではなく、本願の通りに十方衆生を救う救い主であるという阿弥陀仏の名のりなのです。

 第十八願には、「信心の行者がもし浄土に生まれなければ、私は仏に成らない」と誓われています。この本願の成就を告げる名のりを、「本願の名号」とか「南無阿弥陀仏」と言うわけです。

 自ら「南無阿弥陀仏」となって名乗り出られたのは、すでに私達を浄土に生まれさせる力が完成しているからです。

 この「南無(われをたのめ)阿弥陀仏(必ず救う)」の仰せをただいま聞き受けている状況のことを、浄土真宗における「信心」と呼びます。

 そして、成就文に「乃至一念」とあるように、その始まりの瞬間(一念)から一生涯続く(乃至)ものが「聞即信(信心)」なのです。

 仏辺を仰ぐほかに信はなく、私が聞いている弥陀の仰せそのままが私の信心です。「聞というきき方は一生にたった一度キリしかありません」、このような異安心と真宗の信心は無縁です。


コメントの一覧

高森会長のこの教説、とんでもない誤解を招く内容ですよね。
信心を、何らかの「私の体験とその記憶」としか思えなくしてしまいますよね。

日頃法話で聞かせていただいている本願のいわれの内容以外に、信心とて無いんですが、そこを見誤らせてしまう、とんでもない教説ですね。

コメント有り難うございます。

本日の降誕会にて、改めて祖師の御恩を深く知らされました。
今後も親鸞会と戦っていきたいと思います。

無題

「その始まりの瞬間(一念)から一生涯続く(乃至)」
だから、一生に1度なのでは??


無題

shinさん

失礼ですが、貴方の質問に「はてな」です。
人間は死ぬ、ソクラテスは人間だ、よってソクラテスは死ぬ、と順を追って説明してきたことに対して、「ソクラテスは死なないのでは??」と頓珍漢な質問をされても答えようがありません。
もう一度、本文を読んで下さいとしか言えません。

浄土真宗において使われる「聞く」という言葉は、普段、我々が日常会話で使っている「聞く」という言葉と概念が違いますので、混同されると浄土真宗を誤解してしまいます。

浄土真宗においては、聞くということがそのまま信心であり、聞くことによって信心が成立するということとは全く違います。


コメントの投稿

秘密

   
当ブログについて

 当ブログは、高森顕徹氏が会長を務める「宗教法人・浄土真宗親鸞会」の邪義を破っていくものです。目に余る親鸞会の醜状を歎き、ここに真宗の正義を綴りました。

※メイン記事の最終更新は2013年の2月であり、親鸞会の教義や組織に関する情報はそれ以前のものに基づいております。

管理人:黒猫

 関東在住の念仏者です。有り難くも阿弥陀様よりご信心を恵まれ、お念仏申す人生を送っております。

南無阿弥陀仏

目次
サイトマップ

全ての記事を表示

推薦書籍
お問い合わせ

お名前
メールアドレス
件名
本文

リンク