親鸞会邪義を破る

親鸞会会員の皆様へ

 
 初めまして、管理人の黒猫です。私が現役会員の方々にお伝えしたいことは、以下の三点です。


一、どのように批判されているのか、自分できちんと確認するべき。

 会員の方々にとって高森会長の正しさは絶対であり、本願寺や親鸞会批判サイトの主張は間違っているというのが共通認識だと思います。

 しかしながら、実際に本願寺の書籍や批判サイトを読んだことのある方は少ないはずです。相手の主張を聞きもしない内に、頭から間違っていると決め付けてしまっているわけです。

 「親鸞会が正しいに決まっている」という根拠のない安心感に浸るのではなく、きちんと自分の目と耳で確認するべきです。


二、現代にも善知識はおられるし、親鸞会を離れても浄土真宗の教えは聞ける。

 会員の方々には「善知識は高森先生お一人」、「親鸞会以外で正しい教えは説かれていない」という思いがあるでしょう。親鸞会内では情報操作が徹底されているので、そう思い込まされているのです。

 実際は現代にも善知識は沢山おられますし、親鸞会を離れても浄土真宗は聞けます。

 正確に言えば、親鸞会を離れない限り本当の浄土真宗は聴聞できません。


三、信心決定は「難しい」ことではない。

 「全ての人が救われる」と聞きながらも、信心決定することは「難しい」という意識が会員の方々にはあると思います。

 しかし、信心決定は「難しい」ことではありませんし、いつかどこかでの話でもありません。他力より回向される信心だからです。

 当ブログを通し、親鸞聖人が「凡小修し易き真教、愚鈍往き易き捷径なり」と言われたこころを知って頂ければと思います。

 正しい名号のいわれを聞けば、その時その場で救われます。


「若不生者不取正覚」といふは

【問い】

 阿弥陀仏の本願には「若不生者 不取正覚」と誓われている。これは「もし信楽に生まれさせることができなければ、仏の命を捨てる」という約束だろう。


【答え】

 違います。善知識方は一貫して、「若不生者 不取正覚」=「もし浄土に生まれなければ、仏に成らない」というご解釈です。

 親鸞聖人の『尊号真像銘文』には、

 「若不生者不取正覚」といふは、「若不生者」はもし生れずはといふみことなり、「不取正覚」は仏に成らじと誓ひたまへるみのりなり。このこころはすなはち至心信楽をえたるひと、わが浄土にもし生れずは仏に成らじと誓ひたまへる御のりなり。(※これは広本の御文であり、略本では一部省略されている)


と明記されており、同じく『尊号真像銘文』の別の箇所にも、

 「若不生者不取正覚」といふは、ちかひを信じたる人、もし本願の実報土に生れずは、仏に成らじと誓ひたまへるみのりなり。


とお書きになられています。『唯信鈔文意』を見ても同じです。

 「乃至十念 若不生者 不取正覚」といふは、選択本願の文なり。この文のこころは、「乃至十念の御なをとなへんもの、もしわがくにに生れずは仏に成らじ」とちかひたまへる本願なり。


 上記の御文から、「若不生者 不取正覚」が「(本願を信じて念仏称える者が、)もし浄土に生まれなければ、仏に成らない」という意味であることは明確です。親鸞会の「もし信楽に生まれさせることができなければ、仏の命を捨てる」という解釈は明らかに間違っています。

 「㈱チューリップ企画と田中一憲氏の論戦」で田中氏も同じ根拠を出していますが、親鸞会は論点をずらしにずらして、最終的には誤魔化したまま終わっています。親鸞聖人の御言葉よりも高森会長の教義を優先する、典型的なカルトの思考パターンです。


 高森会長は自身の解釈の根拠として、まず本願成就文の「即得往生 住不退転」を挙げます。不体失往生を示すこの経文は「若不生者 不取正覚」と対応しているのだから、「若不生者 不取正覚」も今生で信楽に生まれるという現益を誓われているのだという主張です。

 本願成就文の「即得往生 住不退転」が、本願文の「若不生者 不取正覚」と対応していることはその通りです。しかし、先に私が挙げた根拠にある通り、「若不生者 不取正覚」とは念仏者の浄土往生を誓われた経文だというのが親鸞聖人のご解釈です。

 本願成就文の「即得往生 住不退転」とは、「(本願を信じて念仏称える者が、)もし浄土に生まれなければ仏に成らない」という「若不生者 不取正覚」の誓いが成就しているから、名号を聞いて信心歓喜し浄土に生まれることを願う衆生は、「即ち往生を得、不退転に住せん」ということです。

 つまり、衆生の浄土往生を誓われた本願が成就しているから、その本願を信ずる者は今生で往生一定になると説かれているのです。これが本願文と成就文の関係であり、成就文が親鸞会の解釈の根拠とはなりません。

 次によく親鸞会が持ち出す、「信受本願前念命終 即入正定聚之数 即得往生後念即生 即時入必定 又名必定菩薩也」という『愚禿鈔』の御文ですが、

 これは親鸞聖人が『往生礼讃』の前序にある言葉を取られて、「念仏行者は前念に命が終れば、後念にただちに浄土に往生する」という意味であったのを、「現世において本願を信受すると同時に往生一定となる」という意味に置き換えられているだけです。この御文も高森会長の自説を論証するものではありません。

 『御消息』で親鸞聖人は、

 十八の願に、「信心まことならば、もし生れずは仏に成らじ」と誓ひたまへり。


と書かれています。信楽開発と「若不生者」を同時の事態とは見ておられないのです。別の『御消息』では以下のように仰っています。

 念仏往生と信ずる人は、辺地の往生とてきらはれ候ふらんこと、おほかたこころえがたく候ふ。そのゆゑは、弥陀の本願と申すは、名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたるを、ふかく信じてとなふるがめでたきことにて候ふなり。


 念仏して往生すると信じる人が、辺地といわれる方便の浄土に往生するなどと嫌われるようなことは、全く理解できない。なぜなら、弥陀の本願とは、名号を称える者を極楽浄土へ迎えようとお誓いになっているのであり、それを深く信じて念仏することが尊いのであるから、という意味です。

 本願を信じるとは、弥陀の仰せの通りに念仏称えることと同じですから、ここでは「名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたる」のが弥陀の本願だと示されています。

 このような信心よりも念仏を強調しての第十八願釈は善導大師のものが有名ですが、『安心決定鈔』の冒頭では『往生礼讃』の第十八願釈が引かれて、

 この願を『礼讃』に釈したまふに、「若我成仏 十方衆生 称我名号 下至十声 若不生者 不取正覚」といへり。この文のこころは、「十方衆生、願行成就して往生せば、われも仏に成らん、衆生往生せずは、われ正覚を取らじ」となり。


と示されています。はじめの第十八願加減の文を訓読みすると、「もしわれ成仏せんに、十方の衆生、わが名号を称せん。下十声に至るまで、もし生まれずは、正覚を取らじ」となります。「他力の念仏を称える衆生は、たった十回しか称えなかった者でも、もし生まれずは……」というこの文脈で、「もし生まれずは」が信楽に生まれることだとすると意味が通じません。

 実際、「この文のこころは、『(中略)衆生往生せずは、われ正覚を取らじ』となり」と解説されており、「若不生者 不取正覚」の文意は明示されています。
 
 この他にも私にはいくらでも根拠がありますが、親鸞会に聖教上の根拠は一つもありません。「若不生者 不取正覚」=「もし信楽に生まれさせることができなければ、仏の命を捨てる」などという解釈は、ただの一箇所も聖典上に存在しないのです。

 「若不生者 不取正覚」=「(本願を信じて念仏称える者が、)もし浄土に生まれなければ、仏に成らない」ということを踏まえれば、下記の法語の意味も自ずと知れるでしょう。

 ただ男女・善悪の凡夫をはたらかさぬ本行にて、本願の不思議をもつて生るべからざるものを生れさせたればこそ、超世の願ともなづけ、横超の直道ともきこえはんべれ。


 『改邪鈔』の御言葉です。男も女も、善人も悪人も、本来の姿のままで、不思議な本願力によって、極楽浄土になど到底生まれることのできないはずの者を往生させるからこそ、超世の願とも名付けられ、横超の直道とも言われるのです。

 覚如上人の仰る通り、阿弥陀仏はどんな悪凡夫でもありのままの姿で救って下さいますが、「必ず往生させる」という誓いを曲解して浄土願生しないような人は助けることができません。

 阿弥陀仏の本願とは、「真実なる本願(至心)を疑いなく信じて(信楽)、我が国に生まれるとおもって(欲生我国)念仏称えなさい(乃至十念)。もし浄土に生れなければ(若不生者)、仏に成らない(不取正覚)」という仰せです。この本願は完成して「南無(我をたのめ)阿弥陀仏(必ず往生させる)」という呼び声になり、いま現在はたらき続けています。

 この勅命をはからいなく聞き入れているのが信心です。「必ず往生させる」という阿弥陀仏の信心がそのまま私の信心としてはたらいて下さるので、これを他力回向の信心と言います。


※2013年12月23日追記

 今月の10日に『なぜ生きる 2』が一万年堂出版より発刊されました。

 その152ページで高森会長は、「若不生者」の現代語訳を「もし私の真実の浄土へ往生できぬことがあれば」と修正しています(「不取正覚」の解釈は相変わらず間違っています)。

 これには正直驚きました。

 アニメ第2部やチューリップ法論、普段の講演会であれだけ強調していた自説を、いとも簡単に取り下げたわけです。

 これまでも教義の改変や追加は度々ありましたが、今回はその最たるものです。

 流石に動揺を隠しきれない会員も少なくないようです。

 いずれにせよ、「高森流三願転入論」を中心軸として、親鸞会の教義は間違いだらけです。

 以下のエントリーでその邪義を破っていきます。


二河白道の譬喩(1)

【問い】
 
 善導大師が二河白道の譬喩で説かれているように、欲や怒りの心と闘いながら白道を進んでいくのが求道だ。そして、絶体絶命の三定死で「そのまま来たれ」の弥陀の呼び声を聞くのではないか。


【答え】
 
 違います。御聖教を無視して高森会長の解説を鵜呑みにするから、そうやって騙されてしまうのです。本気で後生の一大事を解決したい気持ちがあるなら、しっかり自分の目で確かめねばなりません。

 流し読みは禁物です。きちんと精読して下さい。『観無量寿経疏』にある二河白道の譬喩です。

 また一切の往生人等にまうさく、いまさらに行者のために一の譬喩を説きて、信心を守護して、もつて外邪異見の難を防がん。何者かこれなるや。たとへば、人ありて西に向かひて百千の里を行かんと欲するがごとし。忽然として中路に二の河あるを見る。一にはこれ火の河、南にあり。二にはこれ水の河、北にあり。二河おのおの闊さ百歩、おのおの深くして底なし。南北辺なし。まさしく水火の中間に一の白道あり。闊さ四五寸ばかりなるべし。この道東の岸より西の岸に至るに、また長さ百歩、その水の波浪交はり過ぎて道を湿し、その火炎また来りて道を焼く。水火あひ交はりて、つねにして休息することなし。この人すでに空曠のはるかなる処に至るに、さらに人物なし。多く群賊・悪獣ありて、この人の単独なるを見て、競ひ来りて殺さんと欲す。この人死を怖れてただちに走りて西に向かふに、忽然としてこの大河を見て、すなはちみづから念言す。「この河は南北に辺畔を見ず。中間に一の白道を見るも、きはめてこれ狭小なり。二の岸あひ去ること近しといへども、なにによりてか行くべき。今日さだめて死すること疑はず。まさしく到り回らんと欲すれば、群賊・悪獣漸々に来り逼む。まさしく南北に避り走らんと欲すれば、悪獣・毒虫競ひ来りてわれに向かふ。まさしく西に向かひて道を尋ねて去かんと欲すれば、またおそらくはこの水火の二河に堕せん」と。時に当りて惶怖することまたいふべからず。すなはちみづから思念す。「われいま回らばまた死せん。住まらばまた死せん。去かばまた死せん。一種として死を勉れずは、われむしろこの道を尋ねて前に向かひて去かん。すでにこの道あり。かならず度るべし」と。この念をなす時、東の岸にたちまち人の勧むる声を聞く。「なんぢ、ただ決定してこの道を尋ねて行け、かならず死の難なからん。もし住まらば、すなはち死せん」と。また西の岸の上に人ありて喚ばひていはく、「なんぢ一心正念にしてただちに来れ。われよくなんぢを護らん。すべて水火の難に堕することを畏れざれ」と。この人すでにここに遣はし、かしこに喚ばふを聞きて、すなはちみづからまさしく身心に当りて、決定して道を尋ねてただちに進みて、疑怯退心を生ぜず。あるいは行くこと一分二分するに、東の岸に群賊等喚ばひていはく、「なんぢ、回り来れ。この道嶮悪にして過ぐることを得ず。かならず死すること疑はず。われらすべて悪心をもつてあひ向かふことなし」と。 この人喚ばふ声を聞くといへどもまた回顧せず。一心にただちに進みて道を念じて行けば、須臾にすなはち西の岸に到りて、永くもろもろの難を離る。善友あひ見えて慶楽すること已むことなし。これはこれ喩へなり。
 次に喩へを合せば、「東の岸」といふは、すなはちこの娑婆の火宅に喩ふ。「西の岸」といふは、すなはち極楽の宝国に喩ふ。「群賊・悪獣詐り親しむ」といふは、すなはち衆生の六根・六識・六塵・五陰・四大に喩ふ。「無人空迥の沢」といふは、すなはちつねに悪友に随ひて真の善知識に値はざるに喩ふ。「水火二河」といふは、すなはち衆生の貪愛は水のごとく、瞋憎は火のごとくなるに喩ふ。「中間の白道四五寸」といふは、すなはち衆生の貪瞋煩悩のなかに、よく清浄の願往生心を生ずるに喩ふ。すなはち貪瞋強きによるがゆゑに、すなはち水火のごとしと喩ふ。善心微なるがゆゑに、白道のごとしと喩ふ。また「水波つねに道を湿す」といふは、すなはち愛心つねに起りて、よく善心を染汚するに喩ふ。また「火炎つねに道を焼く」といふは、すなはち瞋嫌の心よく功徳の法財を焼くに喩ふ。「人道の上を行きてただちに西に向かふ」といふは、すなはちもろもろの行業を回してただちに西方に向かふに喩ふ。「東の岸に人の声の勧め遣はすを聞きて、道を尋ねてただちに西に進む」といふは、すなはち釈迦すでに滅したまひて、後の人見たてまつらざれども、なほ教法ありて尋ぬべきに喩ふ。すなはちこれを声のごとしと喩ふ。「あるいは行くこと一分二分するに群賊等喚ばひ回す」といふは、すなはち別解・別行・悪見人等妄りに見解を説きてたがひにあひ惑乱し、およびみづから罪を造りて退失するに喩ふ。「西の岸の上に人ありて喚ばふ」といふは、すなはち弥陀の願意に喩ふ。「須臾に西の岸に到りて善友あひ見えて喜ぶ」といふは、すなはち衆生久しく生死に沈みて、曠劫より輪廻し、迷倒してみづから纏ひて、解脱するに由なし。仰ぎて釈迦発遣して指して西方に向かはしめたまふことを蒙り、また弥陀悲心をもつて招喚したまふによりて、いま二尊の意に信順して、水火の二河を顧みず、念々に遺るることなく、かの願力の道に乗じて、捨命以後かの国に生ずることを得て、仏とあひ見えて慶喜することなんぞ極まらんといふに喩ふ。


 高森会長の説明が如何に原文と相違しているかおわかりでしょうか。

 まず初めに、高森会長は「二河や白道の向こう岸は見えない」と説明していますが、善導大師は「二河おのおの闊さ百歩」「この道東の岸より西の岸に至るに、また長さ百歩」「二の岸あひ去ること近しといへども」などと仰っています。

 これは『愚禿鈔』に、

 「百歩」とは、人寿百歳に譬ふるなり。


とあるように、長くてもせいぜい百年ほどである人間の寿命を表しているのです。

 次に、高森会長は「白道を進んでいくと三定死になる」と説明していますが、原文には白道に乗じる前のこととして三定死が説かれています。

 「この人死を怖れてただちに走りて西に向かふに、忽然としてこの大河を見て、すなはちみづから念言す。「『この河は南北に辺畔を見ず。中間に一の白道を見るも、きはめてこれ狭小なり。二の岸あひ去ること近しといへども、なにによりてか行くべき。今日さだめて死すること疑はず。まさしく到り回らんと欲すれば、群賊・悪獣漸々に来り逼む。まさしく南北に避り走らんと欲すれば、悪獣・毒虫競ひ来りてわれに向かふ。まさしく西に向かひて道を尋ねて去かんと欲すれば、またおそらくはこの水火の二河に堕せん』と。時に当りて惶怖することまたいふべからず。すなはちみづから思念す。『われいま回らばまた死せん。住まらばまた死せん。去かばまた死せん。一種として死を勉れずは、われむしろこの道を尋ねて前に向かひて去かん。すでにこの道あり。かならず度るべし』と」

 すなわち三定死とは、①東に引き返そうとすれば群賊・悪獣が迫ってくる、②南や北へ逃げ去ろうとすれば悪獣・毒虫が向かって来る、③西に向かって道をたどって行こうとすれば、おそらく水火の二河に落ちてしまうだろう、ということです。

 しかし、「どうしても死を免れられないのなら、むしろこの道をたどって前に進もう。すでにこの道があるのだから、必ず渡れるに違いない」と旅人は思います。そしてその時に、釈迦・弥陀の声を聞くのです。

 「この念をなす時、東の岸にたちまち人の勧むる声を聞く。「きみただ決定してこの道を尋ねて行け、かならず死の難なからん。もし住まらば、すなはち死せん」と。また西の岸の上に人ありて喚ばひていはく、「なんぢ一心正念にしてただちに来れ。われよくなんぢを護らん。すべて水火の難に堕することを畏れざれ」と。この人すでにここに遣はし、かしこに喚ばふを聞きて、すなはちみづからまさしく身心に当りて、決定して道を尋ねてただちに進みて、疑怯退心を生ぜず」

 旅人は釈迦の勧めと弥陀の呼び声を聞いたので、その通りに受けとめ、少しも疑ったり怯えたり、しりごみなどすることなく、白道を進むことができたのでした。


 そして一番のポイントは、この白道は「求道心」や「聞法心」を譬えているのではないということです。

 「『中間の白道四五寸』といふは、すなはち衆生の貪瞋煩悩のなかに、よく清浄の願往生心を生ずるに喩ふ」と言われている通り、「白道」とは「他力の信心」なのです。

 『教行信証』にも、以下のように記述されています。

 まことに知んぬ、二河の譬喩のなかに「白道四五寸」といふは、白道とは、白の言は黒に対するなり。白はすなはちこれ選択摂取の白業、往相回向の浄業なり。黒はすなはちこれ無明煩悩の黒業、二乗・人・天の雑善なり。道の言は路に対せるなり。道はすなはちこれ本願一実の直道、大般涅槃、無上の大道なり。路はすなはちこれ二乗・三乗、万善諸行の小路なり。四五寸といふは衆生の四大五陰に喩ふるなり。「能生清浄願心」といふは、金剛の真心を獲得するなり。本願力の回向の大信心海なるがゆゑに、破壊すべからず。これを金剛のごとしと喩ふるなり。


 まとめるとこうなります。

   「白」    = 選択摂取の白業、往相回向の浄業
   「道」    = 本願一実の直道、大般涅槃、無上の大道
 「清浄願心」 = 金剛の真心、本願力回向の大信心海



 もう少し説明を加えますと、善導大師は「かの願力の道に乗じて」とも言われてますので、白道は「本願力」の譬えでもあります。以下、存覚上人の『浄土真要鈔』から引用します。

 しかれば、二河の譬喩のなかにも、中間の白道をもつて、一処には如来の願力にたとへ、一処には行者の信心にたとへたり。「如来の願力にたとふ」といふは、「念々無遺乗彼願力之道」といへるこれなり。こころは、「貪瞋の煩悩にかかはらず、弥陀如来の願力の白道に乗ぜよ」となり。「行者の信心にたとふ」といふは、「衆生貪瞋煩悩中 能生清浄願往生心」といへるこれなり。こころは、「貪瞋煩悩のなかによく清浄願往生の心を生ず」となり。されば、「水火の二河」 は衆生の貪瞋なり。これ不清浄の心なり。「中間の白道」は、あるときは行者の信心といはれ、あるときは如来の願力の道と釈せらる。これすなはち行者のおこすところの信心と、如来の願心とひとつなることをあらはすなり。したがひて、清浄の心といへるも如来の智心なりとあらはすこころなり。もし凡夫我執の心ならば、清浄の心とは釈すべからず。


 「白道」= 如来の願力、弥陀如来の願力の白道、行者の信心、清浄願往生の心、如来の智心

 このように仰っています。「白道」=「自力の求道心、聞法心」などという解釈が入りこむ余地などないのです。

 『一念多念証文』に、

 二河のたとへに、「一分二分ゆく」といふは、一年二年すぎゆくにたとへたるなり。


と解説されている通り、白道を進むということは、信心の行者がお念仏の人生を一年二年と過ごしていくことであって、「煩悩と闘って求道していく」ことではありません。

 高森会長としては、会員の献金や勧誘活動のモチベーションを引き出したい。そのために二河白道の譬喩をねじ曲げ、「善のすすめ」と結び付けて利用しているわけです。他のエントリーで説明しますが、親鸞聖人の御教えに「(獲信のための)善のすすめ」などないのです。

 貧富、老少、善悪の差別なく、聞く一つで救われるのが第十八願の浄土真宗です。


二河白道の譬喩(2)

【問い】

 譬喩の中には「『人道の上を行きてただちに西に向かふ』といふは、すなはちもろもろの行業を回してただちに西方に向かふに喩ふ」とあるではないか。「もろもろの行業を回して」というのは、弥陀に向かって宿善を積んでいくことだろう。


【答え】

 違います。親鸞会が御文の意味を誤解しているだけです。

 ここで「もろもろの行業を回して」と言われている「回して」は、「回向して」ということではありません。「回して」とは、回転・回捨の意味であり、「ひるがえし捨てて」ということです。たとえば『唯信鈔文意』に、

 『観経』の三心は定散二機の心なり、定散二善を回して、『大経』の三信をえんとねがふ方便の深心と至誠心としるべし。


とあるのと同様、「ふり捨てて」というのが正しい解釈です。


 旅人は弥陀の呼び声を聞いて「道の上を行きてただちに西に向かふ」のですが、弥陀の呼び声とは「なんぢ一心に正念にしてただちに来れ、われよくなんぢを護らん。すべて水火の難に堕せんことを畏れざれ」でした。

 「ただち(直)に来れ」「直」について『愚禿鈔』では、

 「直」の言は、回に対し迂に対するなり。また「直」の言は、方便仮門を捨てて如来大願の他力に帰するなり、諸仏出世の直説を顕さしめんと欲してなり。


と解説されています。まず「『直』の言は、回に対し迂に対するなり」と仰っていますが、「回」(まわり道)及び「迂」(遠まわり)とは『教行信証』で、

 横超とは、横は竪超・竪出に対す、超は迂に対し回に対するの言なり。竪超とは大乗真実の教なり。竪出とは大乗権方便の教、二乗・三乗迂回の教なり。横超とはすなはち願成就一実円満の真教、真宗これなり。また横出あり、すなはち三輩・九品、定散の教、化土・懈慢、迂回の善なり。


と書かれている通り、漸教の二出を指します。

※二双四重の教判を知らない方がありましたらこちらを参照して下さい。

 つまり、白道(願力の道、清浄の願往生心)とは横超の「真教、真宗」であり、定散のような「迂回の善」ではないということです。ですから『教行信証』には、

 つつしんで往相の回向を案ずるに、大信あり。大信心はすなはちこれ長生不死の神方、欣浄厭穢の妙術、(中略)極速円融の白道、真如一実の信海なり。


と説かれており、大信心の別名として「極速円融の白道」と言われています。

 また、先ほど挙げた『愚禿鈔』の御文には、「『直』の言は、方便仮門を捨てて如来大願の他力に帰するなり」とも書かれていました。「ただち(直)に来れ」の呼び声に信順して、旅人は「ただちに(直)西に向かふ」のですが、それは「方便仮門を捨てて如来大願の他力に帰する」ことであるというわけです。

 従って、「『人道の上を行きてただちに西に向かふ』といふは、すなはちもろもろの行業を回してただちに西方に向かふに喩ふ」の翻訳は、「『人、道の上をまっすぐ西へ向かう』というのは、自力の行を全てふり捨てて、ただちに浄土へ向かうことを譬えたのである」となるのです。

 白道を進んでいくということは、「煩悩と闘っていく」ことでもなければ、「弥陀に向かって宿善を積んでいく」ことでもありません。そのような自身の善悪にとらわれず、素直に他力全託して、お念仏の人生を歩んでいくことです。

 講師部員の中には、「高森先生は現代の人にもわかりやすいよう、あえて原文とは違った説明をして下さっているのだ」などと言う者もいますが、そんな次元の問題ではありません。高森会長の「二河白道の譬喩」は完全な捏造、改竄、創作教義です。

 会員さんが何十年経っても信心決定できない原因、それは「親鸞会の教えは邪義だから」という単純な理由なのです。釈迦弥陀二尊の正意に信順して、一日も早く信心決定して下さい。


念仏成仏これ真宗

【問い】

 他力と無力を混同しているのは信仰の幼稚園児だ。まずは自力の善を積まねば信仰は進まないだろう。


【答え】

 『一枚起請文』に法然上人は、

 ただ往生極楽のためには南無阿弥陀仏と申して、疑なく往生するぞと思ひとりて申すほかには別の子細候はず。


と教えられ、『歎異抄』で親鸞聖人は、

 親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべしと、よきひとの仰せをかぶりて信ずるほかに別の子細なきなり。


と仰っています。念仏して仏に成るのが浄土真宗であって、その他には何もないのです。

 その理由を存覚上人より伺ってみます。『浄土真要鈔』からの引用です。

 それ一向専修の念仏は、決定往生の肝心なり。これすなはち『大経』のなかに弥陀如来の四十八願を説くなかに、第十八の願に念仏の信心をすすめて諸行を説かず、「乃至十念の行者かならず往生を得べし」と説けるゆゑなり。しかのみならず、おなじき『経』の三輩往生の文に、みな通じて「一向専念無量寿仏」と説きて、「一向にもつぱら無量寿仏を念ぜよ」といへり。「一向」といふはひとつにむかふといふ、ただ念仏の一行にむかへとなり。「専念」といふはもつぱら念ぜよといふ、ひとへに弥陀一仏を念じたてまつるほかに二つをならぶることなかれとなり。

 
 「一向専修の念仏は、決定往生の肝心」であるのは、念仏の一行が釈迦・弥陀の御心だからだと仰っているわけです。

 まず、「第十八の願に念仏の信心をすすめて諸行を説かず」と存覚上人は教えておられますが、念仏の信心をすすめず諸行を説くのが高森会長です。悪知識に順っている会員さんが獲信できないのは当然の帰結です。

 次に存覚上人は、「『乃至十念の行者かならず往生を得べし』と説けるゆゑなり」と書かれています。これは「乃至十念 若不生者 不取正覚」の文意です。『唯信鈔文意』にも、

 「乃至十念 若不生者 不取正覚」といふは、選択本願の文なり。この文のこころは、「乃至十念の御なをとなへんもの、もしわがくにに生れずは仏に成らじ」とちかひたまへる本願なり。


と示されています。阿弥陀仏の本願とは、「本願を信じ、浄土に生れるとおもって、念仏称えなさい。もし浄土に生れなければ、仏に成らない」というお約束です。「若不生者」=「信楽に生まれさせる」などという解釈をしている限り信心決定はできません。

参照:「若不生者不取正覚」といふは

 続いて釈尊の御心が明らかにされています。もちろん釈尊の御心とは「一向専念無量寿仏」ですが、その意味まで詳しく教えて下さっているのです。すなわち、「『一向』といふはひとつにむかふといふ、ただ念仏の一行にむかへとなり。『専念』といふはもつぱら念ぜよといふ、ひとへに弥陀一仏を念じたてまつるほかに二つをならぶることなかれとなり」というご解説です。

 「一向」とは念仏一行に向かうことですから、念仏を軽視して雑行に励む親鸞会は一向ではありません。弥陀一仏を念じるだけでは「一向専念無量寿仏」とは言えないのです。『選択本願念仏集』の解説も同じです。

 もし念仏のほかにまた余行を加へば、すなはち一向にあらず。(中略)すでに一向といふ、余を兼ねざること明らけし。すでに先に余行を説くといへども、後に「一向専念」といふ。あきらかに知りぬ、諸行を廃してただ念仏を用ゐるがゆゑに一向といふ。


 「一向」とは念仏以外に余行を兼ねないことであり、諸行を廃して念仏を立てるということです。善知識方が「諸行をすてよ」と仰っているのに対し高森会長の教義は「諸行を実行せよ」ですが、「左に行け」という教えを「右に行け」と真逆に解釈しているのですから、親鸞会で救われる人は誰もいないのです。

 釈迦・弥陀の御心である一向専修の念仏、これが決定往生の肝心です。会員さんにわかりやすく言えば、「念仏の信心一つで救われる」ということです。信因称報説を聞き損なって念仏を軽んじてはなりません。信心と念仏は相即不離の関係にあるからです。親鸞聖人は『御消息』で、

 信の一念・行の一念ふたつなれども、信をはなれたる行もなし、行の一念をはなれたる信の一念もなし。そのゆゑは、行と申すは、本願の名号をひとこゑとなへて往生すと申すことをききて、ひとこゑをもとなへ、もしは十念をもせんは行なり。この御ちかひをききて、疑ふこころのすこしもなきを信の一念と申せば、信と行とふたつときけども、行をひとこゑするとききて疑はねば、行をはなれたる信はなしとききて候ふ。また、信はなれたる行なしとおぼしめすべし。これみな弥陀の御ちかひと申すことをこころうべし。行と信とは御ちかひを申すなり。


とお書きになっています。

 信心の内容は「名号を称える者を救う」という本願であり、行とは信じた通りに本願の念仏を称えることですから、行を離れれた信はなく、信を離れた行もないと言われるのです。妙好人の浅原才市さんは、「風邪をひけば咳が出る 才市が御法義の風邪をひいた 念仏の咳が出る出る」と表現されています。

 そして、この行信は他力より回向されるものですから、信心は自分で起こすものではありませんし、念仏は我々の善根でもありません。まず信心の他力回向について、『一念多念証文』を拝読致します。

 「聞其名号」といふは、本願の名号をきくとのたまへるなり。きくといふは、本願をききて疑ふこころなきを「聞」といふなり。またきくといふは、信心をあらはす御のりなり。(中略)「至心回向」といふは、「至心」は真実といふことばなり、真実は阿弥陀如来の御こころなり。「回向」は、本願の名号をもつて十方の衆生にあたへたまふ御のりなり。


 世間の「信心」と真宗の「信心」はその構造を異にしていますから、相違点をきちんと理解することが大切です。まず世間の「信心」とは、教えを聞いてそれを信じるという形で成立しています。聞くことを要因として信心が成立しているわけです。一方で真宗の「信心」は、聞くこと・聞いていることがそのまま信です。ですから「聞即信」と言われます。本願を聞くことのほかに信心があるのではなく、聞かれる名号がそのまま私の信心となってはたらいて下さるのですから、この信心を他力回向の信心と言うのです。ここでの「聞く」とは、「疑ふこころなき」という聞き方であり、そのまま素直に受け入れるということです。

 次に、念仏の他力回向に関して「行文類」から学びます。

 あきらかに知んぬ、これ凡聖自力の行にあらず。ゆゑに不回向の行と名づくるなり。大小の聖人・重軽の悪人、みな同じく斉しく選択の大宝海に帰して念仏成仏すべし。


 他力回向の念仏というのは、言い方を変えれば不回向の行ということです。念仏以外の余行は、浄土往生の因となるよう願いを込めて振り向けねば往生行とはなりませんが、本願の念仏は阿弥陀仏が往生の行として選定されたものですから、行者が回向する必要がないという意味です。念仏は如来より回向される行なのです。『御一代記聞書』に、

 「真実信心の称名は 弥陀回向の法なれば 不回向となづけてぞ 自力の称念きらはるる」といふは、弥陀のかたより、たのむこころも、たふとやありがたやと念仏申すこころも、みなあたへたまふゆゑに、とやせんかくやせんとはからうて念仏申すは、自力なればきらふなりと仰せ候ふなり。


とありますように、本願の名号を自分の功徳だとおもって称える念仏は、自力ですので嫌われます。名号のいわれを聞き誤っているすがたです。『安心決定鈔』で、

 下品下生の失念の称念に願行具足することは、さらに機の願行にあらずとしるべし。法蔵菩薩の五劫兆載の願行の、凡夫の願行を成ずるゆゑなり。阿弥陀仏の凡夫の願行を成ぜしいはれを領解するを、三心ともいひ、三信とも説き、信心ともいふなり。阿弥陀仏は凡夫の願行を名に成ぜしゆゑを口業にあらはすを、南無阿弥陀仏といふ。


と教えられている通り、願行具足の南無阿弥陀仏は阿弥陀如来が完成されたものです。それを自分の善根だと勘違いして称えていたのでは、弥陀経往生(第二十願による化土往生)にとどまってしまいます。

 長々と説明してきましたが、この他力回向による行信、すなわち南無阿弥陀仏が決定往生の肝心です。「念仏する者を必ず往生させる」という仰せをはからいなく聞き受け、仰せのまま念仏を称えるほかに往生極楽の道はありません。

 親鸞会の会員さんが信心決定できないのは、会員さんに非があるのではなく、高森会長が正しい仏願の生起本末を説いていないことが真の原因です。平成24年の学生大会で高森会長は、「仏願の本=18願、仏願の末=19・20願」という新たな邪義を唱えました。親鸞聖人がそのように教えたという根拠は皆無なのですが、親鸞聖人よりも高森会長を先行させてしまうところにマインドコントロールの恐ろしさがあります。

 正しい仏願の生起本末を親鸞聖人は、

 一切の群生海、無始よりこのかた乃至今日今時に至るまで、穢悪汚染にして清浄の心なし、虚仮諂偽にして真実の心なし。ここをもつて如来、一切苦悩の衆生海を悲憫して、不可思議兆載永劫において、菩薩の行を行じたまひしとき、三業の所修、一念一刹那も清浄ならざることなし、真心ならざることなし。如来、清浄の真心をもつて、円融無碍不可思議不可称不可説の至徳を成就したまへり。如来の至心をもつて、諸有の一切煩悩悪業邪智の群生海に回施したまへり。


『教行信証』で教示され、『御文章』に蓮如上人は、

 それ、五劫思惟の本願といふも、兆載永劫の修行といふも、ただわれら一切衆生をあながちにたすけたまはんがための方便に、阿弥陀如来、御身労ありて、南無阿弥陀仏といふ本願をたてましまして、「まよひの衆生の一念に阿弥陀仏をたのみまゐらせて、もろもろの雑行をすてて、一向一心に弥陀をたのまん衆生をたすけずんば、われ正覚取らじ」と誓ひたまひて、南無阿弥陀仏と成りまします。これすなはちわれらがやすく極楽に往生すべきいはれなりとしるべし。されば南無阿弥陀仏の六字のこころは、一切衆生の報土に往生すべきすがたなり。


と説かれています。仏願の本末とは仏願の因果ということです。


【仏願の本 = 仏願の因本】
 法蔵菩薩(阿弥陀仏の因の位のとき)の発願修行。自分の力では生死を出離することのできない我々を救うため、菩薩は本願を起こされ、永劫の修行をせられた。

【仏願の末 = 仏願の果末】
 因位の願行が成就して果成の阿弥陀仏となられた。願いの通りに十方衆生を育て導き、現に人々を救いつつある。



 亀毛兎角とでも言いましょうか、「仏願の本=18願、仏願の末=19・20願」などという教説が浄土真宗に存在するわけがありません。

 南無阿弥陀仏のいわれを正しく聞いて、念仏一行に向かって下さい。「親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべしと、よきひとの仰せをかぶりて信ずるほかに別の子細なきなり(歎異抄)です。

 親鸞会が教え勧めるのは「獲信ためにはまず善をせよ」ですが、実は自分の力を役立たせようとするその心ほど罪深いものはないのです。信心決定は「人生の目的」ではありませんし、達成するものでもありません。Pull(引く)と書かれてあるドアをPush(押す)と間違えば、押しても押してもドアは開かないのです。向こうからは開かれているドアを、逆に自らの側から押しているのが親鸞会です。

 本願力回向の宗教である浄土真宗のイロハすらわかっておらず、根本から他力の教えをねじ曲げている悪知識、それが高森顕徹の正体であることに気付いて下さい。「善知識の能といふは、一心一向に弥陀に帰命したてまつるべしと、ひとをすすむべきばかりなり(御文章)です。


第十九願の対機

【問い】

 19願にも「十方衆生」と誓われているのだから、19願を通らねば蟻一匹助からないのは当然だろう。


【答え】

 第十八願と第十九願の「十方衆生」では、それぞれその中身が異なります。正依の『大無量寿経』と異訳本を比較すれば明らかです。

 『大無量寿経』第十八願の「十方衆生」
 =『無量清浄平等覚経』第十七願の「諸天人民蠕動之類者」
 =『大阿弥陀経』第四願の「諸天人民蜎飛蠕動之類」
 =諸々の神々や人々や虫の類

 『大無量寿経』第十九願の「十方衆生」
 =『無量清浄平等覚経』第十八願の「諸佛國人民有作菩薩道者」
 =『大阿弥陀経』第七願の「八方上下無央數佛國諸天人民若善男子善女人有作菩薩道」
 =諸々の仏国土の菩薩道を作す者



 『大無量寿経』の第十八願に相当する誓願の対機は、生きとし生ける全てのものです。救いから漏れるものはありません。

 一方、『大無量寿経』の第十九願に相当する誓願の対機は、菩薩道を行ずる者に限られています。菩薩の行を行えないような悪人は対機ではないのです。

 菩薩の行とは、定散二善に集約される一切善行のことです。親鸞会では、お勤めが定善であり、会での活動が散善であるように思われているかもしれませんが、全くの間違いです。

梯實圓著『顕浄土方便化身土文類講讃』のp250より引用

 『観経』の散善顕行縁には、世、戒、行の三福散善を指して、「三世諸仏の浄業正因なり」といわれているように、諸仏の成仏道であった。また定善は、真身観に「無量寿仏を見たてまつれば、すなはち十方無量の諸仏を見たてまつる。無量の諸仏を見たてまつることを得るがゆゑに、諸仏は現前に授記す」といわれているように、諸仏から成仏の授記を得るための「般舟三昧」の行であった。したがって定散諸善の行体は、聖道門の諸行と同じ此土入聖の行であった。


※「授記」とは、仏が修行者に対し、未来の成仏を予言して保証を与えること。

※定善と散善について、詳しくは「定善と散善①」、「定善と散善②」、「定善と散善③」を参照。


 高森会長は19願の軌道に乗る乗らないなどの話をしますが、親鸞会の会員が定散二善を実践できるわけがありません。定善や散善が実践可能な善人のためではなく、一生悪業にまつわられ、罪深くしか生きられない煩悩具足の凡夫のために阿弥陀仏の本願があるのです。

 また、第十八願にのみ「唯除五逆誹謗正法」と逆謗抑止の文があるのは、第十八願の救済の対象となっている機は、五逆をつくり正法を誹謗するような、極悪の者を含めた十方衆生だからです。『尊号真像銘文』にて、

 「唯除五逆誹謗正法」といふは、「唯除」といふはただ除くといふことばなり、五逆のつみびとをきらひ、誹謗のおもきとがをしらせんとなり。このふたつの罪のおもきことをしめして、十方一切の衆生みなもれず往生すべしとしらせんとなり。


と説かれています。善悪や賢愚を選ばず、一切の衆生を対機とされているのが第十八願です。第十九願にこのような抑止の文がないのは、逆謗を抑止する必要のない善人を対機としているからです。

 そして、「化身土文類」の冒頭には、阿弥陀仏が第十九願を建立し、釈迦が要門を説かなければならなかった理由が書かれています。

 しかるに濁世の群萌、穢悪の含識、いまし九十五種の邪道を出でて、半満・権実の法門に入るといへども、真なるものははなはだもつて難く、実なるものははなはだもつて希なり。偽なるものははなはだもつて多く、虚なるものははなはだもつて滋し。ここをもつて釈迦牟尼仏、福徳蔵を顕説して群生海を誘引し、阿弥陀如来、本誓願を発してあまねく諸有海を化したまふ。すでにして悲願います。修諸功徳の願と名づく。


 まず、様々な外道から人々を解放して、真実に導くため、釈迦は聖道門(半満・権実の法門)を説いて彼らを誘引してゆかれたのだと仰っています。しかし、真実を悟る者はまれであり、虚偽から脱け出すことができずに流転する者がほとんどでした。

 そこで釈迦は、要門(定散の諸行を修めて浄土往生を願う教え)を説いて、群生を浄土門へと導かれました。その背後には、聖道門に行き詰まって悩む未熟の機を調育し、真実の法門に誘引するために誓われた悲願、すなわち修諸功徳の願(第十九願)があったのだということです。

 菩提心を発して諸行を修し、此土において悟りを開こうとしていたが、あまりの厳しさに此土での修行成就を断念してしまった聖道門の機が、浄土願生の心を起こしてその行を回向すれば、臨終に来迎して往生させようと誓われた願が第十九願です。

 つまり、第十九願は聖道門の者を浄土門へ誘引するための方便だということです。浄土門の行者に用いられる方便ではありません。

 また、第十九願が方便願であるというのは、願海真仮論を確立された親鸞聖人の御教えにおいて言われることであって、自力諸行の機は第十九願を方便願だとは思っていません。方便を方便と知っていながら、その方便を実践するようなことはないのです。

 第十九願は自力諸行往生を誓われた願であり、すでに第十八願の他力念仏往生を願う行者には必要ありません。末法五濁の今日、悪人正機の浄土真宗の御教えを聞かせて頂く私達は、真仮を区別し、方便願を離れ、ただ選択本願を聞信すればよいのです。

 第十八願の救いを求めている者が、自力諸行に励む必要はありませんし、方便に止まっていてはいつまでたっても信心を頂くことができません。「選択本願は浄土真宗なり」(御消息)と言われている通り、浄土真宗とは第十八願のことです。諸行往生ではないですから、「善のすすめ」などありません。「念仏する者を必ず往生させる」という念仏往生の願をはからいなく信じて、念仏を称えて下さい。


下根の機には念仏をすすむ

【問い】

 君は「七仏通戒偈」も知らんのか。修善が獲信の障害ならば、なぜ諸仏が善のすすめを説かれるのだ。


【答え】

 『醍醐本法然上人伝記』の問答に、

 或人問て云く、常に廃悪修善の旨を存じて念仏すると、常に本願の旨を思い念仏すると何が勝れたるや。答、廃悪修善は是れ諸仏の通戒といえども、当世の我等、悉く違背せり、若し別意の弘願に乗ぜずば、生死を出で難きものか。


とあるように、末法濁世の我々は諸仏通戒の廃悪修善(散善)に悉く違背していますから、阿弥陀仏の本願によらなければ生死を離れることはできないのです。

 『御消息』に親鸞聖人は、

 浄土宗のなかに真あり、仮あり。真といふは選択本願なり、仮といふは定散二善なり。選択本願は浄土真宗なり、定散二善は方便仮門なり。


と教えられています。弘願門と要門はそれぞれ別の法門であり、定散二善は浄土真宗ではありません。

 定散二善とは、『教行信証』に、

 二善・三福は報土の真因にあらず。諸機の三心は自利各別にして、利他の一心にあらず。如来の異の方便、欣慕浄土の善根なり。


と書かれている通り、欣慕浄土の善根です。

 欣慕浄土の善根とは、浄土を願い慕わせるための善根ということで、聖道門の行者を浄土門へ導くための方便として機能します。『観無量寿経疏』に、

 また決定して深く、釈迦仏、この『観経』の三福・九品・定散二善を説きて、かの仏の依正二報を証讃して、人をして欣慕せしめたまふと信ず。


とあり、『西方指南抄』で法然上人が、

 第十九の願は、諸行之人を引入して、念仏之願に帰せしめむと也


と仰っている通りです。

 定散二善の行体は聖道門の諸行と同じ此土入聖の行です。自らの修行をそのまま往生の行に転換させるだけですから、要門は聖道門の行者に馴染みやすく、難行に行き詰まっている人を誘引する方便として用いられるのです。

 さて、この定散二善、つまり諸行は善人のための方便ですから、悪人には用いられません。下品下生の私達には、はじめから念仏一行の他に方便はないのです。存覚上人の『持名鈔』にはこうあります。

 薬をもつて病を治するに、かろき病をばかろき薬をもつてつくろひ、おもき病をばおもき薬をもつていやす。病をしりて薬をほどこす、これを良医となづく。如来はすなはち良医のごとし。機をかがみて法を与へたまふ。しかるに上根の機には諸行を授け、下根の機には念仏をすすむ。これすなはち、戒行もまつたく、智慧もあらんひとは、たとへば病あさきひとのごとし。かからんひとをば諸行のちからにてもたすけつべし。智慧もなく悪業ふかき末世の凡夫は、たとへば病おもきもののごとし。これをば弥陀の名号のちからにあらずしてはすくふべきにあらず。


 病の軽い上根の機には諸行という軽い薬、病の重い下根の機には念仏という重い薬、仏様はこのように応病与薬されます。「智慧もなく悪業ふかき末世の凡夫は(中略)弥陀の名号のちからにあらずしてはすくふべきにあらず」だからです。

 ですから『浄土和讃』には、

 五濁悪時悪世界 濁悪邪見の衆生には 弥陀の名号あたへてぞ 恒沙の諸仏すすめたる


と説かれており、濁悪邪見の衆生に諸仏が与えるのは、諸行ではなく、はじめから弥陀の名号なのです。

 第十九願の果てに獲信があるのではありません。方便の教えである諸善はすてて、本願の行である念仏を称えて下さい。


「方便破壊せむもの」とは誰のことか

【問い】

 親鸞聖人は「如來の遺教を疑謗し 方便破壞せむものは 弓削の守屋とおもふへし したしみちかつくことなかれ」と仰っている。釈迦一代の教えである浄土の方便を破壊する君は、物部守屋が如くの仏敵だろう。


【答え】

 私は廃立を勧めているのであって、方便を破壊しているわけではありません。そもそも御和讃の読み方が間違っています。親鸞聖人は『御消息』で次のように書かれています。

 そらごとを申し、ひがことをことにふれて、念仏のひとびとに仰せられつけて、念仏をとどめんとするところの領家・地頭・名主の御はからひどもの候ふらんこと、よくよくやうあるべきことなり。そのゆゑは、釈迦如来のみことには、念仏するひとをそしるものをば「名無眼人」と説き、「名無耳人」と仰せおかれたることに候ふ。善導和尚は、「五濁増時多疑謗 道俗相嫌不用聞 見有修行起瞋毒 方便破壊競生怨」とたしかに釈しおかせたまひたり。


 嘘いつわりを言い、間違ったことを何かと念仏者に言いつけて、領家や地頭、名主が念仏を妨げようとするのは、充分ないわれがあることなのだと仰っています。そして、『目連所問経』の内容と『法事讃』の御文を引かれているわけです。

 ここに「方便破壊」という言葉があります。では、『選択本願念仏集』でその訓読文を見てみます。

 「世尊法を説きたまふこと、時まさに了りなんとして、慇懃に弥陀の名を付属したまふ。五濁増の時は疑謗多く、道俗あひ嫌ひて聞くことを用ゐず。修行することあるを見ては瞋毒を起して、方便して破壊して競ひて怨を生ず。かくのごとき生盲闡提の輩は、頓教を毀滅して永く沈淪す。大地微塵劫を超過すとも、いまだ三途の身を離るることを得べからず。大衆同心にみな、あらゆる破法罪の因縁を懺悔せよ」と。


 漢文では動詞の後に目的語がきます。たとえば「聞其名号」のように、「聞(動詞)」の後に「其名号(目的語)」が書かれるのです。従って、「方便破壊」は「方便を破壊して」とは読みません。法然上人が書き下されているように、「方便して破壊して」なのです。つまり、「種々の方法を用いてこわして」ということです。

 そして、何をこわしているのかといえば、信心の行者の修行、弥陀の名を行ずることです。他力念仏の修行、第十八願の専修念仏を「方便して破壊して」という文脈なわけです。ですから、最初に挙げた親鸞聖人の『御消息』でも、権力者が「念仏をとどめんとする」いわれとして『法事讃』が引かれていました。このことを教えられたのが、次の『高僧和讃』です。

 五濁増のときいたり 疑謗のともがらおほくして 道俗ともにあひきらひ 修するをみてはあだをなす


 「疑謗のともがら」の左訓には、「弥陀のちかひを疑うもの、そしるものなり」とあります。

 また、『正像末和讃』にも、

 有情の邪見熾盛にて 叢林棘刺のごとくなり 念仏の信者を疑謗して 破壊瞋毒さかりなり


 五濁の時機いたりては 道俗ともにあらそひて 念仏信ずるひとをみて 疑謗破滅さかりなり


と、このように説かれています。

 今日のような五濁悪世では、高森会長のように「18願だけで助かるわけないやろ!」などと念仏の信者を疑謗し、種々の方法を用いて破壊する者が多いのだということです。

 そして『法事讃』の御文は、「かくのごとき生盲闡提の輩は、頓教を毀滅して永く沈淪す。大地微塵劫を超過すとも、いまだ三途の身を離るることを得べからず。大衆同心にみな、あらゆる破法罪の因縁を懺悔せよ」と続きます。

 この部分に対応する『高僧和讃』が、

 本願毀滅のともがらは 生盲闡提となづけたり 大地微塵劫をへて ながく三塗にしづむなり


であり、『正像末和讃』にも、

 菩提をうまじきひとはみな 専修念仏にあだをなす 頓教毀滅のしるしには 生死の大海きはもなし


と書かれています。

 「19願を通らねば獲信はできん!」などと、頓教である阿弥陀仏の本願、つまり横超の易行である浄土真宗を非難攻撃する高森会長は、永く三悪道に沈み、迷いの世界を彷徨い続けるという意味です。

 さて、『法事讃』の御文のまとめとして、親鸞聖人が法然上人の法語を収集した『西方指南鈔』から引用します。

 見有修行起瞋毒 方便破壊競生怨
 如此生盲闡提輩 毀滅頓教永沈淪
 超過大地微塵劫 未可得離三途身
 大衆同心皆懺悔 所有破法罪因縁

 この文の心は、浄土をねかひ、念仏を行する人をみては、毒心をおこし、ひかことをたくみめくらして、やうやうの方便をなして、専修の念仏の行をやふりあたをなして、ととむるに候也。かくのことくの人は、むまれてより仏性のまなこしひて、善のたねをうしなへる、闡提人のともからなり。この弥陀の名号をとなえて、なかき生死をはなれて、常住の極楽に往生すへけれとも、この教法をそしりほろほして、この罪によりて、なかく三悪道にしつむとき、かくのこときの人は、大地微塵劫をすくれとも、なかく三途の身をはなれむこと、あるへからすといふ也。


 「方便破壊」の方便は第十九願などの権仮方便のことではありませんし、「方便を破壊する」という読み方も間違いです。「方便破壊」とは「やうやうの方便をなして、専修念仏の行をやふり(破り)あた(仇)をなして、ととむる(止むる)」という意味です。


 前置きが長くなりましたが、これから結論に入ります。

 先ほど挙げた『高僧和讃』や『正像末和讃』は、『法事讃』の(法然上人が引用されていた箇所の前にある文章も含む)御文に基づいてつくられていますが、『皇太子聖徳奉讃』第六四首や第七一首も同様です。

 如來の遺教を疑謗し 方便破壞せむものは 弓削の守屋とおもふへし したしみちかつくことなかれ


 つねに佛法を毀謗し 有情の邪見をすすめしめ 頓教破壞せむものは 守屋の臣とおもふへし


 『法事讃』との対応関係を確認して下さい。

 世尊説法時將了。慇懃付屬彌陀名。
 五濁増時多疑謗。道俗相嫌不用聞。
 見有修行起瞋毒。方便破壞競生怨。
 如此生盲闡提輩。毀滅頓教永沈淪。


 ちなみに、『皇太子聖徳奉讃』第六四首に使われている「如来の遺教」という言葉は、他の御和讃では諸善をの教えを指している場合もあります。しかしながら、一つ前の第六三首が「守屋か邪見を降伏して 佛法の威徳をあらわせり いまに教法ひろまりて 安養の往生さかりなり」という和讃であること、また、『法事讃』との対応関係や文脈から総合的に判断して、ここでの「如来の遺教」は第十八願の念仏往生の教えを指していると判断するのが自然でしょう。

 従って、「如來の遺教を疑謗し 方便破壞せむものは 弓削の守屋とおもふへし したしみちかつくことなかれ」、この御和讃の意味は、「念仏の教えを疑謗し、種々の方法を用いてこわす高森会長は、排仏をした物部守屋のような者だと思うべきである。親しみ近づいてはならない」ということなのです。


此一流は始終ひしと他力なり

【問い】

 信心獲得は「宿善まかせ」と蓮如上人は仰っているのだから、宿善が厚くなるよう求めねばならんのは当然だろう。


【答え】

 蓮如上人関連の著作にみえる「宿善」という言葉は、『御文章』に三十箇所、『正信偈大意』に二箇所、『御一代記聞書』に十箇所ありますが、どこにもそのような語法では使われていません。そのような語法とは、「宿善は待つにあらず、求むるものなり」という使い方です。言葉は相対的なものですから、著者の定義や語法をきちんと踏まえた上で読まなければなりません。高森会長は「宿善」という言葉だけを切り取って勝手に定義し、教団の都合によって悪用しているだけであって、それと真宗で言われる「宿善」は別物です。

 結論から申しますと、「宿善」とは宿世の善き因縁のことで、如来の調育のはたらきを指します。それは「たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ」(総序)という御言葉や、「宿善めでたしといふはわろし。御一流には宿善ありがたしと申すがよく候ふ」(御一代記聞書)などのお示しからも端的にわかるでしょう。『拾遺御一代記聞書』にも、

 此一流は始終ひしと他力なり、一心に弥陀をたのむも我賢てたのむにあらず、過去の宿善によりてたのむゆへに始終みな他力なり。(真聖全五、拾遺部下、五五七頁)


とあるように、宿善とは如来のはからいであって、自ら励み求めるものではないのです。「始終みな他力なり」です。『御文章』一帖目第四通にも、

 おほよそ当家には、一念発起平生業成と談じて、平生に弥陀如来の本願のわれらをたすけたまふことわりをききひらくことは、宿善の開発によるがゆゑなりとこころえてのちは、わがちからにてはなかりけり、仏智他力のさづけによりて、本願の由来を存知するものなりとこころうるが、すなはち平生業成の義なり。


とお書きになられています。「わがちからにてはなかりけり、仏智他力のさづけによりて」です。

 平成25年1月15日号の顕正新聞には「宿善」の「善」=善根(善い行い)と書かれていますが、「宿善」は「宿因」や「宿縁」などと言い換えられますように、「宿世の善き因縁」という意味です。そして、その本体は仏の光明によるお育てなのです。『口伝鈔』に、

 往生の信心の定まることはわれらが智分にあらず、光明の縁にもよほし育てられて名号信知の報土の因をうと、しるべしとなり。これを他力といふなり。


と言われているのを『御文章』二帖目第九通などで、

 まことに宿善の開発にもよほされて、仏智より他力の信心をあたへたまふ。


といった表現で換言されているのです。宿善=光明です。

 つまり、宿善とはそれを積み重ねることによって獲信しようなどという次元の教説ではなく、信心を獲得した上で遠い過去世にまでわたる因縁を慶ぶ言葉です。それは光明によるお導きですから、宿世の善き因縁、すなわち「宿善」と呼ばれます。「遠く宿縁を慶べ」とか、「宿善ありがたし」などと言われているのはそのためです。宿善は、これから獲信しようという場で考えるのではなく、すでに信心を獲得している場で受け取っていくべきものなのです。「宿善は待つにあらず、求むるものなり」などという教説は、ただの一箇所も聖教上に存在しません。

 このように批判すると、親鸞会はいつもお決まりの反論をしてきます。それが以下の詭弁です。

 『宿善と聴聞と善のすすめ』10章 疑難と答え6

(疑難)

 「宿善とは、宿世(過去世)の善根という意味であり、振り返って喜ぶ過去の善だから〝宿善を求める〟などと未来に向かって言うべきことではない。今からやる善とは無関係だ」

(答え)

 要するに「過去をあらわす言葉を未来に使うのが間違い。過去の善根と未来の善根とは無関係」というのである。

 果たして、そう言えるだろうか。
 「想い出をつくろう」というのは間違いだろうか。「想い出」は過去をあらわす言葉であり、「つくろう」は未来のことだからである。
 「悔いを残さぬように」というのも間違いだろうか。「悔い」は過去をあらわす言葉であり、「残さぬように」は未来のことであるからだ。

 「宿善」は過去をあらわす言葉であり、「求める」は未来のことである。
 「宿善を求める」だけが、なぜ間違いと言えるのだろうか。悪いはずがなかろう。


 間違いですし、充分悪いです。冒頭で申しました通り、言葉は相対的なものであって、それぞれに定義や用法があります。「宿善」という言葉と「想い出」や「悔い」という言葉を同じ平面上で語らないで下さい。高森会長の主張には聖教上の根拠が全くありません。

 上記の文章は次のように続きます。

 また、こんな疑難もある。
 「世間のことと違って、弥陀の救いに『宿善を求める』といっては、他力の救いに自力が間に合うことになる。そんな言葉を使うのは間違いだ」
 分かりやすく言えば、こうだ。
 「宿善を求めるといえば、他力の救いに自力が間に合うことになるから間違いだ。過去の善と今からの善は無関係である」
という疑難である。

 「求めるといえば、他力の救いに自力が間に合うことになるから間違いだ」とすれば、ぼーっとしていればよいのかということになる。
 完全に他力と無力の聞き誤りである。


 他力を無力を聞き誤っているのは、高森会長、あなた自身です。「宿善を求める」というような心はすてなければいけませんが、それはぼーっとすることではありません。自力をすてて他力に帰せよと言っているのです。『御一代記聞書』には以下のように教えられています。

 よきことをしたるがわろきことあり、わろきことをしたるがよきことあり。よきことをしても、われは法義につきてよきことをしたると思ひ、われといふことあればわろきなり。あしきことをしても、心中をひるがへし本願に帰すれば、わろきことをしたるがよき道理になるよし仰せられ候ふ。しかれば、蓮如上人は、まゐらせ心がわろきと仰せらるると云々。


 一見善いことと見える行いでも、そこに「自分こそが」という我執があるならば、それはかえって悪となります。一方、たとえ悪いことをしてしまっても、回心して本願を信じれば、悪いことをしたのが善いことになる場合もあります。親鸞聖人も「疑謗を縁として」(化土巻)と仰っているように、たとえ謗法の教団である親鸞会に騙されてしまったとしても、その経験が縁となって本願に遇えたならば、それも「宿善」であって「宿悪」とは言われないのです。総じて言えば、自らの善根を阿弥陀仏にふり向け、役立たせようとする心こそが悪なのであるというのが、上記の御文の結論です。

 獲信を目指して「宿善を求める」などという考えは、自らの善根を役立てて信心を獲得しようとすることであり、蓮如上人が「わろき」と戒められた「まゐらせ心」です。その心をすてよというのは、ぼーっとしていればよいと言っているのではありません。本願に帰せよと言っているのです。

 何度でも言いますが、「宿善は待つにあらず、求むるものなり」というのは高森会長の創作教義です。前代未聞、全くの珍説です。『御文章』三帖目第十二通には、

 それ、当流の他力信心のひととほりをすすめんとおもはんには、まづ宿善・無宿善の機を沙汰すべし。さればいかに昔より当門徒にその名をかけたるひとなりとも、無宿善の機は信心をとりがたし。まことに宿善開発の機はおのづから信を決定すべし。されば無宿善の機のまへにおいては、正雑二行の沙汰をするときは、かへりて誹謗のもとゐとなるべきなり。この宿善・無宿善の道理を分別せずして、手びろに世間のひとをもはばからず勧化をいたすこと、もつてのほかの当流の掟にあひそむけり。されば『大経』にのたまはく、「若人無善本不得聞此経」ともいひ、「若聞此経 信楽受持 難中之難 無過斯難」ともいへり。また善導は「過去已曾 修習此法 今得重聞 則生歓喜」とも釈せり。いづれの経釈によるとも、すでに宿善にかぎれりとみえたり。しかれば宿善の機をまもりて、当流の法をばあたふべしときこえたり。


と教示されています。「無宿善の機のまへにおいては、正雑二行の沙汰をするときは、かへりて誹謗のもとゐ」となりますから、「まづ宿善・無宿善の機を沙汰すべし」なのです。「宿善の薄い者は宿善を求めよ」などとは言われません。「宿善の機をまもりて、当流の法をばあたふべし」です。

 『御一代記聞書』に、

 御文のこと、聖教は読みちがへもあり、こころえもゆかぬところもあり。御文は読みちがへもあるまじきと仰せられ候ふ。御慈悲のきはまりなり。これをききながらこころえのゆかぬは無宿善の機なり。


と書かれている『御文章』ですが、そこには「雑行をすてよ」と絶対に間違いようのない御教えが説かれています。それをあくまで「雑行をせよ」ということだと真逆の解釈をするならば、その人は無宿善だと言わざるを得ません。しかし、当ブログなどを読んで親鸞会の間違いを素直に受け止められるならば、その方にはきっと宿善があります。正しい浄土真宗を聴聞し、真実信心を決定して下さい。


 ときに、「あさましや バーゲン信心 体験談」と詠う親鸞会が、平成25年1月15日号の顕正新聞に故人の体験談を載せていました。退会者続出の波が止まらないので、わかりやすい餌をぶら下げたのでしょう。まさに「教えなし 体験談が 自慢種」です。

 記事の最後にはこう書かれてありました。

 「一向専念無量寿仏、これ一つですよ。弥陀の本願を疑ってはなりませんよ」

 ここだけ読めば仰る通りです。しかし、一向専念無量寿仏させずに、弥陀の本願を疑うよう会員に仕向けるのが高森顕徹という男です。このことは以前のエントリーで書きました。

参照:「念仏成仏これ真宗」


 会員からは「蓮如上人以来の大善知識」と呼ばれている高森会長ですが、「善鸞以来の大悪知識」であるというのが実情です。誤って自力の念仏を説く僧侶は多くいても、獲信のためには諸善を積めなどという飛び抜けた邪義を唱える者はいなかったからです。

 これ以上阿弥陀様を悲しませないで頂きたい、そう願うばかりです。


さらに行者のはからひにあらず候ふ

 『歎異抄をひらく』第2部の(7)、

 「念仏称えたら地獄か極楽か、まったく知らん」とおっしゃった聖人 ―「知らん」は「知らん」でも、知りすぎた、知らん

 この解釈も親鸞会邪義を代表する間違いの一つです。「飛雲 ~親鸞会の邪義を通して~」さんの、

◆ 「浄土へまゐるべしとも、また地獄へゆくべしとも、定むべからず」

◆ 「会員との問答(死後と捨自帰他との関係について)」

◆ 「そろそろ勉強しておかないと、と思いながらまだ何も始めてない高森会長」

で詳しく解説されているのでまずお読み下さい。


 親鸞聖人が『御消息』で、

 他力と申すは、仏智不思議にて候ふなるときに、煩悩具足の凡夫の無上覚のさとりを得候ふなることをば、仏と仏のみ御はからひなり、さらに行者のはからひにあらず候ふ。


と仰っている通り、凡夫が念仏によって往生成仏するなどということは我々がはからうことではなく、頭で確認することなどできないのです。

 以前、「安心問答(浄土真宗の信心について)」さんの、

◆ 「凡夫にとっての『無疑』とは具体的にどのようなものか」

で触れられていましたが、阿弥陀仏や極楽、後生の存在なども同様、たとえ念仏者であってもわかりません。そのようなことがわかるのは仏様だけです。

 つまり、親鸞会の会員さんが想像しているような、「信心を獲得すれば阿弥陀仏の智慧を賜わるのだから、これまでの価値観が崩壊して全く新しい世界が見えるようになる」、そのような体験は存在しないということです。信前信後、あくまで私達は煩悩具足の凡夫です。


 では信心とは何かと言えば、たとえば、親鸞聖人が御手紙の中で「よくよく『唯信鈔』・『後世物語』なんどを御覧あるべく候ふ」とか、「ただ詮ずるところは、『唯信鈔』・『後世物語』・『自力他力』、この御ふみどもをよくよくつねにみて、その御こころにたがへずおはしますべし」などと仰っている『後世物語聞書』に、その心相がとてもわかりやすく明示されています。

 またあるひといはく、簡要をとりて三心の本意をうけたまはり候はん。師のいはく、まことにしかるべし。まづ一心一向なる、これ至誠心の大意なり。わが身の分をはからひて、自力をすてて他力につくこころのただひとすぢなるを真実心といふなり。他力をたのまぬこころを虚仮のこころといふなり。つぎに他力をたのみたるこころのふかくなりて、疑なきを信心の本意とす。いはゆる弥陀の本願は、すべてもとより罪悪の凡夫のためにして、聖人・賢人のためにあらずとこころえつれば、わが身のわろきにつけても、さらに疑ふおもひのなきを信心といふなり。つぎに本願他力の真実なるに入りぬる身なれば、往生決定なりとおもひさだめてねがひゐたるこころを回向発願心といふなり。


 つまり、

 至誠心(至心) ― 一心一向に他力をたのむ

 深心(信楽) ― 疑いが無い

 回向発願心(欲生) ― 必ず往生できるとおもう


 これが念仏者の心相であって、これ以外には何もありません。『一枚起請文』に、

 ただ往生極楽のためには南無阿弥陀仏と申して、疑なく往生するぞと思ひとりて申すほかには別の子細候はず。


と言われているままです。自分の中に確かなものがあるわけではなく、「必ず往生させる」という救い主のお手元の確かさ、これをただ仰ぐのが信心ですから、我々念仏者としては何もかもお任せしているのであって何も「知らん」のです。

 曲りなりにも龍谷大学専門部を卒業している高森会長なら、十力や四無所畏の言葉くらい知っているでしょう。その中の業異熟智力は業とその果報との因果関係を知る力であり、正等覚無所畏は一切の法をさとっているという自信です。そのような徳を具えた仏様にこそ「念仏は、まことに浄土に生るるたねにてやはんべらん、また地獄におつべき業にてやはんべるらん」、その判断がつくのです。

 蓮如上人の「雑行を捨てよ」を「雑行をせよ」と真逆に解釈し、親鸞聖人が「知らん」と仰っているのを「知っている」と決めつけるのですから、もう全くどこへ行きたいのやらわかりません。会長が吹聴するオカルトチックな体験をいくら求めようとも、そんなものは存在しないのですからその通りにはなれないのです。

 正しい浄土真宗を聴聞して、阿弥陀如来に帰命して下さい。「生きてよし、死んでよし」の世界に生かされます。


聞即信ということ

高森顕徹著『こんなことが知りたい②』のp153~157より引用

 聞即信という言葉は、阿弥陀仏が私達を絶対の幸福に救済して下される時のことを表す、真宗にとっては極めて大切な言葉です。(中略)
 聴は上辺の心が善知識の御教化をきいて合点して有り難がっているきき方ですが、聞は下の心のドン底に、阿弥陀仏の呼び声がきこえた時のきき方をいうのです。
 だから聴は何十回何百回でもありますが、聞というきき方は一生にたった一度キリしかありません。(中略)
 この驚天動地の一念の体験を聞即信というのですから、この阿弥陀仏の御声をジカに聞くまで、聞きぬきましょう


 信心決定している者が読めば、一発で異安心とわかる文章です。なぜなら、浄土真宗における「聞」とはそれがそのまま「信」であり、信心は生涯にわたって相続するからです。「聞」は一度きりのことではありません。

 このことは『一念多念証文』に、

「聞其名号」といふは、本願の名号をきくとのたまへるなり。きくといふは、本願をききて疑ふこころなきを「聞」といふなり。またきくといふは、信心をあらはす御のりなり。


と説かれ、『浄土和讃』で、

光明てらしてたえざれば 不断光仏となづけたり 聞光力のゆゑなれば 心不断にて往生す 『浄土和讃』


と教えられています。

 ちなみに、「聞光力」の左訓には「弥陀の御おんちかひを信じまゐらするなり」とあり、「心不断」の左訓には「弥陀の誓願を信ぜる心たえずして往生すとなり」とあります。

 浄土真宗においては、聞くこと、聞いていることがそのまま信心なのですが(聞即信)、何を聞くのかと言えば「名号(のいわれ)」です。

 名号とは、一般には諸仏や諸菩薩の名前のことですが、浄土教では特に阿弥陀仏の名を指します。そして、阿弥陀仏の名号は単なる名前ではなく、本願の通りに十方衆生を救う救い主であるという阿弥陀仏の名のりなのです。

 第十八願には、「信心の行者がもし浄土に生まれなければ、私は仏に成らない」と誓われています。この本願の成就を告げる名のりを、「本願の名号」とか「南無阿弥陀仏」と言うわけです。

 自ら「南無阿弥陀仏」となって名乗り出られたのは、すでに私達を浄土に生まれさせる力が完成しているからです。

 この「南無(われをたのめ)阿弥陀仏(必ず救う)」の仰せをただいま聞き受けている状況のことを、浄土真宗における「信心」と呼びます。

 そして、成就文に「乃至一念」とあるように、その始まりの瞬間(一念)から一生涯続く(乃至)ものが「聞即信(信心)」なのです。

 仏辺を仰ぐほかに信はなく、私が聞いている弥陀の仰せそのままが私の信心です。「聞というきき方は一生にたった一度キリしかありません」、このような異安心と真宗の信心は無縁です。


念仏の行者もし往生せずは、われも正覚を取らじ

 以前のエントリーで、「若不生者 不取正覚」=「わが浄土にもし生れずは仏に成らじ」であることを示しました。

 親鸞会の「若不生者 不取正覚」=「もし信楽に生まれさせることができなければ私は命を捨てる」という解釈は大間違いです。

参照:「若不生者 不取正覚」といふは


 「わが浄土にもし生れずは仏に成らじ」と誓われ、既に菩薩は成仏されているのですから、南無阿弥陀仏は「必ず往生させる」という仰せなのです。

 では、どんな者を「必ず往生させる」と仰っているのかと言うと、『尊号真像銘文』に、

このこころはすなはち至心信楽をえたるひと、わが浄土にもし生れずは仏に成らじと誓ひたまへる御のりなり。


とありますように、当然「至心信楽をえたるひと」、他力の信心を獲得した人を浄土へ連れてゆくと約束されています。信心獲得とは『御文章』に、

信心獲得すといふは第十八の願をこころうるなり。この願をこころうるといふは、南無阿弥陀仏のすがたをこころうるなり。


と教えられている通り、第十八願、南無阿弥陀仏のすがたを心得ることでした。言い換えれば、仏願の生起本末です。これを『持名鈔』から伺ってみましょう。

おほよそ阿弥陀如来は三世の諸仏の本師なれば、久遠実成の古仏にてましませども、衆生の往生を決定せんがために、しばらく法蔵比丘となのりて、その正覚を成じたまへり。かの五劫思惟のむかし、凡夫往生のたねをえらび定められしとき、布施・持戒・忍辱・精進等のもろもろのわづらはしき行をばえらびすてて、称名念仏の一行をもつてその本願としたまひき。「念仏の行者もし往生せずは、われも正覚を取らじ」と誓ひたまひしに、その願すでに成就して、成仏よりこのかたいまに十劫なり。 如来の正覚すでに成じたまへり、衆生の往生なんぞ疑はんや。


 これが仏願の生起本末です。底下の凡夫でも往生できるよう、菩薩は勝易具足する称名念仏を本願の行とされました。何の善もできない悪凡夫でも往生させる勝れた行、臨終を迎えた悪凡夫でも間に合う易しい行です。この念仏を称える衆生は必ず往生できるのです。

 法然上人は『和語灯録』に、

心の善悪をもかへり見づ、つみの軽重をも沙汰せず、ただ口に南無阿弥陀仏と申せば、仏のちかひによりて、かならず往生するぞと、决定の心ををこすべき也。その決定の心によりて、往生の業はさだまる也。往生は不定におもへば不定也。一定とおもへば一定する事也。詮じてはふかく仏のちかひをたのみて、いかなる過をもきらはず、一定むかへ給ぞと信じて、うたがふ心のなきを深心とは申候也。


と仰り、『西方指南抄』には、

しかればたれだれも、煩悩のうすくこきおもかへりみす、罪障のかろきおもきおもさたせず、ただくちにて南無阿弥陀仏ととなえば、こゑにつきて決定往生のおもひをなすべし、決定心を、すなわち深心となづく。その信心を具しぬれば、決定して往生するなり。詮ずるところは、ただとにもかくにも、念仏して往生すといふ事をうたがはぬを、深心とはなつけて候なり。


と書かれています。

 自身の善悪や罪の軽重は問題とせず、ただ専ら念仏を称え、必ず浄土に往生できると思いなさい。念仏往生を誓われた第十八願を深く信じてお任せしなさい、と仰っているのです。これを「就行立信」と言います。仏が説示された往生の行に就き順って深信を建立する、ということです。

 『御消息』で親鸞聖人が、

行と申すは、本願の名号をひとこゑとなへて往生すと申すことをききて、ひとこゑをもとなへ、もしは十念をもせんは行なり。この御ちかひをききて、疑ふこころのすこしもなきを信の一念と申せば、信と行とふたつときけども、行をひとこゑするとききて疑はねば、行をはなれたる信はなしとききて候ふ。また、信はなれたる行なしとおぼしめすべし。


と教えられている通り、名号を称える者を往生させるという本願を疑いなく聞き入れ、はからいなく念仏している人を信心の行者と言うのです。

 つまり、本願を信じる(信心)ということは、名号を称える(念仏)ことなのです。「行をはなれたる信」もなければ、「信をはなれたる行」もありません。高森会長は念仏を軽視しますが、それは真宗のイロハもわかっていない何よりの証拠です。

本願のなかにさらに余行なし。三輩ともに上の本願によるがゆゑに、「一向専念無量寿仏」といふ。(中略)あきらかに知りぬ、諸行を廃してただ念仏を用ゐるがゆゑに一向といふ。


『選択本願念仏集』にあり、『持名鈔』にも、

おほよそ「一向専念無量寿仏」といへるは、『大経』の誠説なり。諸行をまじふべからずとみえたり。「一向専称弥陀仏名」と判ずるは、和尚の解釈なり。念仏をつとむべしときこえたり。


と明示されています。雑行を捨てて念仏を称えることが廃立であり、一向専念無量寿仏なのです。教えに真っ向から背いている親鸞会に、信心獲得する人が皆無なのは当然のことです。

 他の方便はありません。念仏一行が往生極楽の道です。会員さんにわかりやすいように言えば、「念仏の信心一つで助かる」ということです。


高森会長の素性

 最後に、高森会長の素性について触れておきましょう。

 会員の方のほとんどは壇上での高森会長しか知らないと思います。過去の経歴や日常の姿は意図的に伏せられているからです。


 高森顕徹は1929年(昭和4年)の2月、富山県氷見市の浄土真宗本願寺派末寺に次男として誕生しました。

 1945年(昭和20年)、16歳で特攻隊へ志願、予科練に入りましたが、8月に太平洋戦争が終結しましたので9月に復員します。同年の11月、龍谷大学専門部に入学しました。

 そして翌年の1946年(昭和21年)、増井悟朗氏に誘われて華光社(華光会の前身)に入会します。ここで伊藤康善氏や増井悟朗氏と親しく交友していました。

 しかし、1958年(昭和33年)に華光会と縁を切り、29歳で親鸞会を設立しました。


 その教義のほとんどは伊藤康善氏や大沼法龍氏の著作から盗作し、高森会長独自の味わいを加えたものとなっています。

 たとえば、伊藤康善著『安心調べ』には、

 峻厳火を吐き、鬼気人に迫るような…。廃立の厳しい親鸞聖人の信念は、決して春画を見て手淫しているようなものではない。機の計らいを奪えるだけ奪い、罪悪の谷底へ落とせるだけ叩き落として、生死の断頭台上に生首を突き出してやる残忍毒語の説法がなくてはならぬ。


とあり、これが高森顕徹著『会報第五集』だと、

 機の計いを奪えるだけ奪い、罪悪の谷底に堕せるだけ叩き堕して、生死の断頭台上に生首を突き出して下される峻巌火を吐き、鬼気迫る善知識の説法にあわなければ、突破出来ない難中の難の境地であることも牢記しておかねばならぬ。


と表記されています。また、大沼法龍著『法界』に、

 光に向いて進む者は栄え、闇に向いて走る者は亡ぶ。


とあるのが、高森顕徹著『光に向かって』では、

 光に向かって進むものは栄え、闇に向いて走るものは滅ぶ。


と書かれています。

 これはほんの一例であって、その他、高森会長の著作ほぼ全てが盗作によって成り立っています。

 詳しくは、「高森顕徹氏の著書のルーツ」をご覧下さい。


 外部から再三再四法論を申し込まれても逃げ回っているのは、勝てる見込みがないからであり、自分でも間違いを自覚しているからです。「『若不生者』を『信楽に生まれる』ことだと解釈する根拠は大沼氏の著作だ」とは言えませんし、『教行信証』すら通読したことのない高森会長は浄土真宗のイロハすらわかっていないのです。我々、真実信心の念仏者に対して反論できるわけがありません。

 そこで親鸞会は、内部での情報操作を徹底し、外部の情報を遮断しているのです。「高森先生は唯一無二の善知識である」という認識を会員に植え付け、「誹謗の輩は異安心だ」と触れ回っています。宗教を利用し、マインドコントロールストローマンのテクニックで大金を騙し取る詐欺師、それが高森顕徹の正体です。

 「善のすすめ」という捏造された教義によって会員からむしり取った財施は、その収支報告が全くなされていません。総計数百億にものぼるお金は、各地の会館や同朋の里の建設、会長専用の玄関や控室、会長のベンツや趣味の絵画、会長専属のシェフと贅沢な食事、高森一族の旅行費用などに使われてきました。

 会員が必死の思いで捻出した財施は、会長の独断で浪費されています。しかも浄土真宗に「善のすすめ」などありませんから、それで会員の方が獲信に近づけるわけでもありません。会員の方は骨折り損のくたびれ儲け、一生苦しみ続けて死ぬだけです。

 高森会長は会員の方の後生など心配してはいませんし、浄土真宗の信心もありません。会員の方が持たれている高森会長の人物像は、完全なる虚像です。 


 特に会員歴の長い方にとって、親鸞会を退会するのは相当に勇気がいることでしょう。私は退会を強要したりはしません。信仰は自由ですし、今後どのような人生を歩まれるか、それも全く貴方の自由です。

 ただ、本当に後生の一大事を解決したい気持ちがあり、このブログを通して親鸞会の誤りを受け止められたのであれば、退会して正しい浄土真宗を聴聞することをお勧め致します。

 ご本願の対機はそのままの貴方です。正しい仏願の生起本末を聞けば、その時その場で救われます。このブログをご縁として皆様が信心決定されるよう、ただそのことを日々念じております。


 南無阿弥陀仏


定善と散善①

梯實圓著『親鸞聖人の教え・問答集』のp31~32より引用

 ところが、経には牢獄でのたうち回るほど苦しんでいた韋提希が、釈尊にお願いしたことは、「われに思惟を教へたまへ、われに正受を教へたまへ」と、定善と呼ばれる修行法を教えていただきたいと要請しました。定善とは、坐禅の一種でして、端坐して身心を安定させ、心を一点に集中して動かすことなく、阿弥陀仏とその浄土を正確に心に顕現させる修行法でした。それは、観察とも観念ともいわれるように、清らかに輝く浄土の荘厳の有様と、広大無辺な功徳を実現されている阿弥陀仏と、その脇士である観音・勢至の二菩薩の素晴らしい姿を目の当たり観念し確認していく十三種の観法でした。しかしそれは、出家して俗縁を離れ、愛憎の煩悩を離れて、長年にわたって心を一点に集中して真理を瞑想する修行を続けた人がようやくだどり着けるような困難な修行でした。わが子のために牢獄に監禁されて身も心も乱れはてて、狂乱しているような韋提希にできるはずのない行です。しかし釈尊は、極めて勝れた修行者ならば、この土にありながら浄土を確認し、阿弥陀仏を目の当たり拝見することもできることを知らせるために、あえて十三種の定善と呼ばれる観念の修行法を説かれたのでした。
 しかし釈尊は、韋提希は要請しませんでしたが、さらに広く往生を願う人の中には、自分が積み重ねた善根によって、浄土に往生したいと願う人のいることを考慮されて、そのような善人のために、散善の行を説かれました。散善とは、心を静める定善に対して、散り乱れた日常の心のままで、悪を慎んで、善を励むことをいいます。その善なる行為を九種類に分けて説かれているので九品の往生と呼び習わしています。まず大乗仏教で説かれている自利・利他の善を行福といい、上品上生・上品中生・上品下生に三種に分けて説かれています。次に戒律を中心にした小乗の善を戒福と名づけ、中品上生と中品中生に説かれています。次に世間の善を世福と呼び中品下生として説かれています。
 さらに『観経』では、定善も散善もできなくて、一生涯悪業ばかりを造っていた悪人も、臨終に善知識に遇い、念仏して往生する姿が説かれています。下品上生は、比較的軽い悪人の往生を表わし、下品中生は中程度の悪人の往生を表わし、下品下生は極重の悪人の念仏往生が説かれています。



定善と散善②

梯實圓著『親鸞聖人の教え・問答集』のp163~166より引用

Q.善・悪という言葉の定義はわかりましたが、仏教では具体的に、どのような行為を善とし、悪とみなして人びとを教化してきたのですか。

A.善と悪の行為を具体的に説かれているのは『観経』です。そこでは極楽という阿弥陀仏の浄土へ往生することのできる徳をもっている行為を善といい、地獄や餓鬼や畜生といった悪道に堕ちる行為を悪とされています。

Q.まず善なる行為とは、どんな行いですか。

A.法然上人は『選択集』念仏付属章に、『観経』に説かれている善行、すなわち往生の因となる行を分類すると、定善と散善と念仏という三種の行になると言われています。その定善と散善は自力の行であり、念仏は他力の行です。

Q.定善とは、どういう善行ですか。

A.浄土の有様や、阿弥陀仏のお姿を心眼で見ていく行です。

Q.心眼とは何ですか。

A.肉眼に対して心の眼のことです。修練によって心を研ぎ澄ましていきますと、肉眼では見えない世界が、心の眼ではっきりと見えるようになります。そのための修行が定善です。善導大師は、それを「慮りをやめて、もって心を凝らす」と言われています。
 心は五官を通して外部の刺激を受けて絶えずゆれ動いていますし、また心はいろんなことを思い続けています。そこで心を一点に集中することによって、外からの刺激にも、内からの想念にも乱されることがなくなり、水が氷になったように静かに、安定して動かなくなった状態を「定」といいます。インドの言葉ではサマーディ(三昧)といいます。
 「定」の状態は妄念・煩悩が静まり、浄化されていますから「善」の性質をもっています。だから「定善」というのです。池の水が波立っていますと周囲の景色は歪んでしか映りません。しかし、風が止んで、水面が鏡のように静まると、周囲の景色があるがままに映り込むように、心の乱れがなくなると、妄念・煩悩によって歪められていた迷いの世界が消えて、経典に説かれている通りに真実の世界が心に映ってきます。それを智慧をもって確認することを「観」とも「観察」「観念」ともいいます。そこで定善を定観ともいうのです。

Q.『観経』には、どのような定善観が明かされているのですか。

A.『観経』には、韋提希夫人の要請に応じて、十三種類の観念の法が説かれています。これを定善十三観と呼んでおります。そのなか第一観から第七観までは、浄土の有様を観ずるので依報観といい、第八観から第十三観までは、浄土の主である阿弥陀如来とその左右の脇士である観世音菩薩と大勢至菩薩を観ずるので正報観といいます。

Q.依報観とか正報観とは、どういうことですか。

A.依報とは、衆生(主体)の生活の拠り所となる生活環境のことで、一般には山河大地など国土を指します。それに対して正報とは、業報の正しき主体である衆生そのものを指します。
 今は法蔵菩薩の願行を因として報い現われた仏・菩薩を正報といい、その仏・菩薩が受用されている境界を依報というのです。

Q.私どもの心は、深い眠り(極睡眠)に入っているとか、意識もなくなるほどの気絶状態(極悶絶)に陥っているとき以外は、一瞬の絶え間もなく動揺し続けておりますから、定善を完成することは果たしてできるのでしょうか。

A.確かに困難な修行で、容易に完成はできません。しかし極めて優れた能力を持ち、超人的な修行に耐えられる人は観念を成就し、生きながらにして浄土にいたって如来の説法を聞くことのできた方もいらっしゃいます。中国の善導大師や懐感禅師、それに法照禅師などはその極めて希な方です。
 しかし善導大師は「定善義」に、「この観念を実現しようと思ったら、完全に世俗と縁を切り、道場にこもって、あらゆる感覚器官を閉じて、何も見ず、聞かず、思わず、死人のようになってひたすら禅定を修するならば、必ず完成する。もしそうしないならば、たとひ千年の寿を尽くせども、法眼いまだかつて開けず」と誡められているように難行に違いありません。



定善と散善③

梯實圓著『親鸞聖人の教え・問答集』のp167~171より引用

Q.『観経』に説かれている散善とは、どのような善行ですか。

A.散り乱れた日常の心のままで、悪行を慎み、善行を修めることです。善導大師は「散はすなわち、悪を廃して、もって善を修す」と言われています。その散善を『観経』の「散善顕行縁」には、「三福行」として説かれています。

Q.三福行とは、どのような行ですか。

A.世福・戒福・行福という三種類の行のことです。三福の「福」とは「しあわせ」のことです。人びとに幸せな果報をもたらす三種類の善行ですから三福行というのです。

Q.世福とは、どういう意味ですか。

A.世間の善ですから世福(世善)といいます。それは世俗を超えるための行ではなく、皆がこの世を幸せに生きるために守らなければならない世間のきまりや、日常生活の質を向上させるためになさねばならない行いのことです。

(中略)

Q.戒福とは、どういう意味ですか。

A.小乗仏教で勧められている善を戒福(戒善)といいます。小乗仏教では、とくに自分自身を清らかにたもち、生死を解脱することに全力を尽くす仏教ですから、何よりも戒律を守ることに重点が置かれています。すなわち世俗を超えて仏道に生きようと志す者は、まず仏陀が誡められた戒律を厳守し、欲望を制御して生活を浄化していかねばなりません。
 まず仏・法・僧の三宝に帰依することを誓う三帰戒をはじめとして、在家の信者ならば五戒をたもって生活し、毎月の六斎日(つつしみの日)に八斎戒をたもち、せめて一昼夜だけでも出家のような清浄な生き方をしなさいと勧められています。
 さらに出家をすれば、まず十戒をうけて修練し、さらに本格的に具足戒をうけて、比丘(男)あるいは比丘尼(女)として清らかな無欲の生活に徹しなければなりません。それによって、仏弟子としてふさわしい身心ともに浄化された生涯を送ることができるからです。

(中略)

Q.行福とは、どのような修行ですか。

A.行福は、大乗仏教で勧められている自利・利他一切の善行を総称したものです。だから行福(行善)というのです。
 大乗に生きようとする人は、まず自他ともに生死を超えて、安らかなさとりの境地を実現していこうと自利と利他の完成を誓う菩提心(さとりの完成を求める誓願)を発さねばなりません。
 そしてあわれみの心をもって人びとに広く施(ほどこし)を行い(布施)・戒律をたもって生活を浄化し(持戒)・どんな苦難にもたえ(忍辱)・たゆみなく努力を続け(精進)・精神を集中して(禅定)・一切は空であると覚る智慧(智慧)を極めて、とらわれを離れるならば、自他ともに、生死を超えることができると、さとりの因果を信じて努め励んでいきます。それを「深く因果を信じる」といいます。
 そして、大乗経典を常に読誦して智慧をみがき、あらゆる人びとに仏教を説いて仏道を歩むようにと勧める伝道(勧進)に努めねばならないといわれています。

Q.この三福行は、もともと往生の行として説かれたものですか。

A.本来は穢土でさとりを完成するための修行だったのです。ですから『観経』には、あらゆる仏陀たちが、まだ菩薩であったときに修行された成仏のための清らかな行いであるといわれています。つまり本来は聖道門の行だったのです。それを『観経』はこの後、九品段に、この三福行を往生の業として広く説かれています。
 すなわち上品上生・上品中生・上品下生には行福が、中品上生と中品中生には戒福が、中品下生には世福が説かれ、三福行によって善人が往生する有様が述べられています。
 そして下品上生・下品中生・下品下生の三生には、定善はもちろん散善すらできなかった無善造悪の悪人が、ようやく臨終にいたって念仏の教えに遇い往生するという、悪人往生の相が明かされるわけです。



私に御本願を伝えて下さった


2014/5/7

梯實圓和上が往生の素懐を遂げられました。喜ぶべきことなのでしょうが、やはり寂しい思いで一杯です。

私に御本願を伝えて下さった方、感謝の言葉もございません。


私は私の人生、残された時間で何をすべきなのか、改めて真剣に考えるきっかけをくださいました。

この泪を忘れはしません。本当に有り難うございました。

貴方に出遇うことができ、私は世界一の幸せ者です。


南無阿弥陀仏


当ブログについて

 当ブログは、高森顕徹氏が会長を務める「宗教法人・浄土真宗親鸞会」の邪義を破っていくものです。目に余る親鸞会の醜状を歎き、ここに真宗の正義を綴りました。

※メイン記事の最終更新は2013年の2月であり、親鸞会の教義や組織に関する情報はそれ以前のものに基づいております。

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 関東在住の念仏者です。有り難くも阿弥陀様よりご信心を恵まれ、お念仏申す人生を送っております。

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